〜2008年9月

眼を見て
人の前で話をするとき、相手の目を見て話す。人の話を聞くとき、相手の目を見て聞くようにする。目は口ほどにモノをいう、眼は心の窓。眼が合えば、心が通う。眼が合えば心に響く。人は饒舌に語ることもでき、一度にたくさんの情報を聞くことができる優れた生き物であるが 眼こそはコミュニケーションの決め手になる、人は見られていると、認められていると安心して力が出るもの。目利き、眼力・・。見る眼を養う・・。
眼は生きる方向や意志を示す活力のシンボル。

雨の夜空に響く歌声
大空に自分の声を響かせたことがありますか?それはそれは爽快で、雄大で、気持ちよく最高です。雨の夜空ならば、その雨音がリズムとなって重なる音をやさしく包み、なんともいえないウェットなハーモニーを生み出してくれます。自分の声が大空に飲み込まれ、やさしく消えていく・・。翌日、星になって現れたらいいな〜と少女のような思いになりました。雨は、すべてを浄化させてくれる命の水。

おまえはどうなんだ?!
ついつい、相手のことをどうこういいたがる。人のことはいいやすい。でもね。そのことを自分に向けてみると、実は自分がまったくそのとおりだったりすることが多い。
人のことを言う前にまず自分。そして人のことはどうでもいい。人を気にせず、生きていくには、自分自身がいつも全力で生きていること、そうすれば、人のことはいい意味で見えなくなる。

不安を軽くするゼロ感覚
人間、不安に対して反応する。生まれながらに不安定な存在であるから、不安のない人生はない。毎日それとの闘い。かといって、いちいち不安だとか心配といっていても意味がない。不安を感じる暇がないぐらい忙しく生きるか、不安に動じない強い精神力を身につけるしかない。何かを失いたくないから、不安になる。でも最初からそれはなかったと思えば失うことにならない。いつもゼロであれば、それ以下にはならない。

オトコを脱がす、オンナを泣かす
これまでいわれた最高のほめ言葉と思っている。男の方からは「男を裸にする人ですね〜」、女性からは「今度、女性だけで泣けるコンサートをしてください。あなたの前から泣けます」と。がんばっている人に限って鎧を脱げなかったり、思いっきり感情を出せなかったりするようだ。どうぞ、自然にしてください。笑いたければ笑えばよい、
泣きたければ泣けばよい。黙っているより、ずっとずっと明日が明るくなると思います。

サラリーマンは己を隠す!?
ある中年の男性が言った「サラリーマンちゅうもんは、自分を隠して生きていくもんです。あんたは自分を出そう出そうとしているな〜」。自分を隠していい仕事ができるのかな。自分らしさを出さなければ仕事はつらく、苦しいだけではないのでは?と思うけれども組織の中で一定時間を生き伸びていくためには、本当の自分を出すとうまくいかないこともあるようで。だからみんな定年までがんばるのですか?どこかしら、男の生き方は切ないものであると しみじみ思ってしまう今日この頃。

会いたくなったらお墓へ。
ときどき、お世話になった方たちのお墓参りに出向くことがある。若い頃はその意味が実はあまりよくわからなかったけれど、これからどんどん身近になっていくのだろう。
墓石を水で流しながら、お花を供えながら、手を合わせながら、知らぬ間にその相手に話しかけている。時間が経てばそんな穏やかな気持ちになっていくのであろうか。そこまで行くには幾山も超えなければならない気もする。年を重ねるとともに、あの人に会いたくなったら、お墓へ行く・・そんなことが習慣になっていくのだろう。

「関係」と「時間」
人は人の関係をマネジメントすることはできない。関係とはその時間や経験のなかでどんどんカタチを変えていくものだから。最初の出会いから一定時間共感しあっていたつもりでも、いつしかそれが離れていくこともある。それを嘆く必要はない。
人は出会い、別れ、そしてまた出会える。そのときの気持ちに純粋に流れに従っていくことも悪くない。どんなときも、あとになれば、「そんなこともあったね」と穏やかに振り返ることができるはずだから。


「恋する老人」に学ぶ
いくつになっても、生き生きと生きている人には色気や恋心があるようです。
若い世代から見るとサプライズでもあり、ほほえましくもあり・・。
しかし、若いときの恋に比べると、もしかしたらその想いは真剣で情熱的だったりする。
いつまでもチャンスがあると思う若者の恋よりも、今しかないと想うそれのほうがよりパワフルだったりする。肉体的な力、精神的な強さ。人間とは悲哀に満ち、また矛盾に満ち、とっても愉快な存在であると最近想ったりするのは私だけか。

一番の環境問題は己の生き方
ECOとかLOHASとかが日常的な現代人の生活の常識として求められている今日。
小さな節約の積み重ね、自発的な行動。いずれも大変すばらしいことであり、ひとりひとりがその意識をもてばきっと世の中はよくなる。と想う反面、さまざまなエネルギーのおかげで生きていられることを肝に銘じて、半端にではなく、徹底的に生ききることが環境問題に対する答えになるのではと思ったりもする。自分はこのために生きてきたんだ!と自信をもっていえる人生にすれば、それでいいのでは?現代社会において、人が生まれ生きていくこと自体がすでに反エコである。であれば、その分意味のある人生にすればそれでよいのでは?という見方は??

「いざ!」のときの待ち合わせ場所
さまざまな災害の危険度が高い今日、身近な人たちと万一の場合、出会えなくなることも日々の不安のひとつ。もし地震や何か災害が来るとしたら休日のほうがよい・・といってもそれは神のみぞ知ること。であれば、万一の場合、無事であったらここで会おう!
という場所を決めておくと少しは安心。
ということで、私の場合は決めてある。もちろん、もちろんそんな日は来ないでほしい。

「呼吸」してみよう。
息をしている自分に気づかない毎日。でもこの呼吸こそが自分の命を支えてくれている。
自分の存在を見失いそうなときは、深呼吸をしてみる。そうすると、心が落ち着き、緊張もほぐれ、自信もわいてくる。普通に呼吸できることに喜びを。
そんな命の原点に気づくと、いろんなことも許せてくる。家族を喧嘩をしたときも、親しい人とうまくいかないときも、相手の呼吸が止まっているよりずっとマシ!そう思うと、呼吸していることに気づくだけで、人は「優しく」なれるかも。


祭りのあと
新年のイブというものが、こんなに盛大な祭りだとは。日本人の初詣文化とは対極の新年の迎え方が欧州にはある。パリのイブは、シャンパンやワインを買い込み、寒い夜空の下、それを立ち飲みして賑やかに新年を祝う。
大通りの店は台風前のように?ガラス扉を覆って、被害防止につとめる。深夜まで町中が賑やか・・。そして朝になればひっそりと・・。見事に町中が静まり返っている。祭りに疲れ眠りこけているのか、騒ぎすぎて反省しているのか?あるのは、あちらこちらに氾濫するシャンパンの割れた空き瓶・・・。
その破片を拾い集める清掃局の人が印象的。いろんな祭りがある。

速くなる時間、重くなる時間
子どもの頃、時間を無駄に使っていたような。それぐらい、時間があまり経たなかった。しかし年を重ねるごとにその速さが身に沁みる。1年もそうである。
年末になると本当に早く時間が経過していき、あっというまに新年になるのに、新年になったとたん、時計の振り子が止まったかのごとく、ゆっくりゆっくり時間が経っていくのである。
1年のはじめに、しっかり1分1秒を大切に過ごす習慣を身に付けておきたい。あとで、時に振り回されることがないように。

人も国もアライアンスの時代へ
たまたま日本は島国で、他国との境界線が明確なほうであるため、日本という単一の国を意識しやすく、見方を変えれば島国であるゆえのモノの見方、考え方が今だに残っている。一方、ヨーロッパをはじめ、大陸に目をやれば、常に隣国との関係の中で、歴史をはぐくんできた。今、EUという世界に目を向ければ大変合理的でよいしくみであると思う。国それぞれの個性は生かされながら交流もしやすく便利である。一国だけが強いのではなく、個々が自立し、さらに連合体になることで、さらに強くなる。国も企業も人も同じである。個を尊重し、目的にかなった連合は大きな力を発揮する。誰と組むか、人生もすべてアライアンスなのかもしれない。

専門店の存在と生活の質
コンビ二、スーパー、ファーストフード、ブランドショップ。日本をはじめ多くのアジアの国は20世紀のアメリカが生んだ業態を多く残している。
便利さ、画一性に慣れている生活。一方、ヨーロッパに行けば、不便であるといえばそうであるが、それ以上に個店が独自性をもち、生き生きとしていることに感動する。商店というものが元気である。「市場」に活気がある。
そこには大量生産・大量消費とは対極の、毎日の生活のリズムに組み込まれた生産と販売・消費のバランスがある。
利便性の真の意味はなにか?ということを改めて考えさせる。便利の先に何がある?今こそ、生活の質・充実を。

心、頭、体。
生きていく上で一番大切なことは、この三位一体。どれも豊かな人生を育むのに不可欠な重要エレメント。これらがバランスよく保たれていれば、心広く、深く、安らかに生きていける。
心はすさんでいないか?頭は冴えているか?体は固まっていないか?
常に前を向き、リズミカルに、エネルギッシュに。何かを起こそう、得よう、動こう、学ぼう。そんな欲求が自然に内側から涌いてくるならば、三位一体の状態だ。それをすなわち「元気」というのだろう。

人間の距離
人との関係なしでは生きていけないのが人間であるが、その距離のとり方は簡単なようで実は難しい。出会うまでの距離、出会ってからの距離、うまくいかなくなって離れたいときの距離、時間が経過してからの距離。
距離は作為的・物理的に努力できるものではなく、おおかたの場合は、時間が解決し、結果的に「ほどよい距離」になっていくこともある。
最後にそんな人たちとの関係が続いていれば、それで幸せなのかもしれない。


朝シャンは世界一の贅沢
朝シャンは、シャンプーではなく、シャンパン。そう、昼も夜もシャンパンはとっても美味しくて、大好きなのであるが、目覚めにいただくのはこの上なくよい。毎朝飲んでいるとか、毎週飲んでいるという作家の方の文章を読んでことがあるが、それは無理として、年のうち、何回か特別な気分の朝にいただくのはとてもうれしいものだ。
何がよい。口に含んだときに広がる発泡酒独特の刺激で頭が冴える、ほのかな酸味とあわせてカラダが目覚める。しかし、アルコールもしっかり入っているのでたちまち、ほんわか体があたたまり、ハイな感じに・・・。このままゆっくりしていたい朝、誰にも会わずに音楽を聴いたり、思うことをつらつら書きたいときには、普段よりもいい感性が涌いてくるかも。
1本のフルボトルはとても多すぎるので、できれば200ミリリットルの飲みきりサイズ。最近はボトルから直接ストローで飲むのがおしゃれといっているがやはり、シャンパンはグラスに注いで泡を楽しみながらいただくのがよい。
これができる日が時々あれば、最高の幸せ。

人生、泣き笑い。
前にも書いたかもしれない。女は泣く動物だから長生きをする。涙を流すことで心身が浄化されるそうだ。
私は実は涙もろい。素晴らしい映画、音楽に触れたとき、とくに遠慮なく涙があふれ出る。飛行機の中でも、道を歩いているときでも、どこでも、その場面が思い出されるだけでもおかまいなしに・・。しかし、泣くという行為は瞬間的なものであり、本当に悲しいとき、深い熟成された思いの中には、涙はないのかもしれない。
そして、私は多分、よく笑う人である。楽しいとき、面白いと思うときは素直に笑う。また、人を笑わせることも好きである。誰しも、人は笑うとかわいい表情を見せてくれる。感情を自由に表現できることは人として幸せである。
泣くも笑うも「素直な自分の表現」である。いつも、素直にありたい。自由でありたい。それが一番の幸せ・・。

愛するピアフに倣いて
30歳にならないうちに、あなたの墓地へ行ったことがあります。
でも、今思えばそのときはなんとなくシャンソンが好きだったにとどまっていたような。40歳を越え、何かもっと深い、言葉にならない思いを胸にもち生きる年齢になってこそ、あなたの歌がもっともっと私の内臓に響いてきました。
そして、あなたの半生を描いた映画を拝見。思わず3回も劇場に足を運び、歌手という職業について、自己表現について、愛について、人生について問うてみました。そして毎回、声をあげるほど泣きながらクライマックスを迎えました。人生のはじまりはいろいろあれど、大切なのは最後であること。
昨日は、あなたが生まれた街、自宅の前まで足を運びました。世界のどこから天才が生まれるかわからないということを痛感。そして、同じ一人の人間として、もっとできること、しなければならないことがあると改めて思いました。ピアフ、人は「愛すること」が一番大切ですね。少しでも近づけるように進みます。

「偽」は自他のためにならず。
2007年の日本を代表する言葉は「偽」だそうだ。よくない。ありがたくない、不名誉なことである。漢字からすれば、偽とは、人のためにすること?人のためにならないこと?自己保身は人間の性であろう。でもそのために嘘をつくのは人のためでなく、結局自分のためにならない。嘘とは、口寂しく、空虚なもの。それを重ねることにより人の本来の豊かさは薄っぺらになり、見た目の豊かさだけを追求することになる。日本は、いつから見た目だけを気にする人の集団になったのだろうか。見た目の豊かさはもういい。心の豊かさを今一度、きちんと確認したい。
人としての道、生き方・・・それをちゃんと足元からみつめよう。それが今の日本に必要不可欠なこと。どこが悪いとかではなく、自分はどうか?と見つめめ直したい。

ときどき「鈍感力」?
すぐにあれはいけない、これは許せない。間違っている。と思いがちな性分。几帳面なのか神経質なのかわからない。もちろん正義感が強いのももちろん悪いことではないけれど、いつでもそんな風にしていると結局疲れるのは自分自身。そして、人間は皆違うから、こちらから見て間違っていても、違った視点で見ればこちらも正しくない。ということもある。人との関係をほどよく保ち、そして自分自身を長持ちさせるためには、「鈍感力」も必要だそうだ。しかし「○○力」という言葉が氾濫しているが、あまりそれこそ力を入れないで「鈍感であることも必要」という程度でいいのでは。
いずれにせよ、真っ直ぐでありすぎず、ちょっと曲がっているもよし、完璧でなくときどき、抜けているのがちょうどいい。寛容であり、寛大であれ。
いずれも自分が生きるために必要な術である。

書かずにいられない日が来るから・・・
もっと書かねば、もっと発信しなければ。自身の仕事・人生の今後を考えたとき、そんな思いに苦しめられることもある。まだ足りない。まだ出し切れていない。時間に追われる仕事ペースになっていることの危機意識なのかもしれない。そんなとき、作家のNさんから「今尾、焦るな。書かずにいられないときが必ず来るから」。ありがたい救い舟をいただいた。意識を持ち続けていれば、必ずその行動に向かう日が来る。でも、爆発しなくてよいから、少しづつでも自分の思いを明確に出すトレーニングはしていかねば。

別れがたいなあ・・。
老人ホームでの演奏後、ひとりのおばあさんが、私に「せんせ、別れがたいなあ」といわれ、言葉につまった。いかに、私がそこを訪れ、演奏させていただくことを楽しみにしていただいていたか、ずっと演奏していてほしいと思ってくださるかの思いが伝わる。私のような見知らぬ存在にも、価値を見出してくださって、別れがたいと握手や抱擁をしてくださること・・・。
どうせお会いするならば、「別れがたい」人でありたい。これからもたくさんの方にお会いするが、会うときも大切であるが、去るときこそ、大切なのかもしれない。

何を続けられますか?
大人は子どもたちに毎日勉強をしなさいという。毎日続けることって結構難しい。でも、みんな毎日無意識に「人生を続けている」。これは朝目覚め三度の食事をして、労働し、余暇を楽しみ、そして眠る・・。その中で意識的に続けられることをいくつももっていると人生はより充実したものになる。毎日わずかな時間でも続けられることは命の栄養になる。
私の場合は、ヨガをわずか数分毎朝自宅で行い、1週間に1回スタジオに通うことが新しい生活習慣になった。いやなことは続けられない。いやなことを続けるとストレスになる。好きなことをみつけて続けていけば、人生はまさにばら色になる。もっと増やしたい。毎日10分できること・・・。

あの人になりたい!
あの人のようになりたいと思う目標の人。私の場合は、エディットピアフ、テレサテン、マザーテレサ。存在感でいえば、ソフィアローレン?
高い目標をもっていても、気を抜くと現世の自分に成り下がってしまうので時々はその目標に触れることが大切。最近、ピアフの映画を観た。しかも1回でなく何度も。観るるたびに、聴くほどに私はこんな人になりたいんだ! とモチベーションがぐんぐんアップ!その人の人生すべてをお手本にしたいとは思わないが、ステージで歌い人々を魅了しているその姿・歌に接すればそれがその人の「すべて」。誰にも犯すことができない絶対的価値をもっている人は、それさえあればすべて赦されるのかもしれない。
これから自分はどんな人になるのかわからないが、「あの人になりたい!」と人様から思っていただけるような、キラリ輝く瞬間をもてる人間になれたら。
それに向かって前に進もう。

白鍵と黒鍵
黒人の先生に教えてもらった大切なこと。黒人とあえて書くのは彼が白人だったらそのことを言わないだろうなとか、日本人だったら思わないだろうなと思うから。歌を歌うとき「あなたはどんな風にこの曲を歌いたいですか?」と聞いてくれる。自分が歌いたいようにするには、キーは何が最適かをアドバイスしてくれる。そして、ダイナミックに明るく歌いたい場合は、白鍵のキーを、しんみりと歌いたい場合は黒鍵のキーを選ぶといいとも。なるほど、キーにはそれぞれの役割がある。それ以来、「キー」というものをよく考える。
人生にもその場面、場面でキーがある。今日は白鍵でいくか?黒鍵でいくか?

「プレゼンテーション」の意味
プレゼンという言葉を聞かない日がない今日。いつしか仕事をとるための?自分を売り込みためのパフォーマンスと思われてはいないだろうか?
私流プレゼンテーションの解釈は「相手様にプレゼントを贈る気持ち」でのアクション。アイデア・思い・伝えるものはいろいろあれど、いずれにせよ相手にとって「受け取ってよかった、聞いてよかった」と思われることこそがプレゼンテーションの妙味。聞いて眠くなってしまい、次のページを開かれてしまうようなプレゼンでは、本当の目的を達していない。
終わったあとに、双方のコミュニケーションがより進み、笑顔が生まれ、次の関係に発展できる。。。ことが大切だ。
そのためには、自分が発信することだけでなく、相手の研究も重要である。

 

  << 2009  
     
  2007までのWords >>  
 
2006までのWords >>