〜2006年12月

「続けること」が人生・仕事
仲良し作家の野村正樹さん。「人生は一歩一歩。60過ぎて改めてそう思う」。NY在住歌手のYUKAさん。「ウサギか亀かといわれたら、私の人生は亀です。できることしかできないけれど、いつか続けていたらウサギを追い越せることもあるかもしれない」。このお二人の言葉は心に沁みる。成功するとかしないとか、それは大したことではない。メリハリある人生は楽しい。しかし楽しいコトばかりは続かない。どんなことがあろうとも、「続けられる」「行き続けられる」ことが必要だ。それは「続けようという『気力』」に尽きる。
どんな小さなことでもよい、自分から続けられることをはじめよう。それを少しづつ増やしていけば、「思っている自分」に近づける・・。

1枚のポートレートを用意する  〜永遠に見られる私のために〜
最近、自分の最高のポートレートを意識するようになった。
自分にもしものことがあったときにも、この1枚を飾ってほしいと思う写真を、自分で用意しておきたいと思うようになったのだ。
世界の美術館に行くと、さまざまな人物の肖像画を目にするが、彼らはきっと永遠に残る自分を後世に残したくて、画家に貴重な1枚を描かせていたのではないかと思う。自分という存在はいつ果てるかしれないが、少なくともこの1枚があれば自分のことを思い出してもらえるかも・・。それは悲しいことではなく、楽しい思い出とするために大切なことかもしれない。
その写真を新しいパスポートに使ってみた。早速、シカゴの入管で「いい写真だねえ〜Oh!Nice~」と褒められた。

「自殺防止」は広告で?
世代を超え、自殺が増えている。子どもも大人も人生に疲れて、生きる力を失って死を選ぶ。人生の意味がわからなくなる、生きる力がなくなる、周囲が自分を認めなくなる。この3つが自殺をする場合の大きな要因であるといわれている。「孤人」が増えているNIPPON。子どもたちはまだ人生を体験していないうちから早すぎる死を選ぶ。「ねえ、こっちを向いて。向いてくれないと何日に自殺するよ」とのメッセージを送り、周囲の大人たちは驚愕、右往左往する。広告を使って、子どもたちに自殺防止のメッセージが伝えられる。エイズ撲滅、喉頭ガン防止・・・アメリカでは広告を使い、さまざまな社会問題に対し、人々を改心させるためのメッセージを発信している。
広告で自殺をとめられるか?きっかけにはなっても解決にはならない。解決できるのは周囲の共感と励まし。「一緒に生きている」実感と生きる喜びの共有。
周囲に孤人を作らないことと、強く生きることの意味を伝えていく教育が本当に必要な時代。広告ではなく、教育ですべきこと。広告でなく、教育でしかできないこと。これが「人づくり」のはず。

恥をかくのを恐れない
何かコトをするときには、成功イメージを思い描き、のぞむ。
しかし、毎回そのとおりにいくとも限らない。「想定外」の事態もありうる。
人間、生きていたらいろんな場面に遭遇する。恥をかくこともある。
誰しもできれば恥をかきたくないが、もしかいてしまっても心配はいらない。
恥という字は心に耳と書く。心を客観的に「聞くことができる、貴重な体験なのだ」と思えばよい。そして同じことにならないように改めていけばよい。
恥をかいたら「大変勉強になりました」といえるようになりたい。

快適温度・快適距離のコミュニケーション
人間とは字のごとく「人の間」と書くが、人の間か、人に間か、人は間か・・
いろんな解釈ができると思うが、いずれにせよ「間」、つまり人はひとりでは人間ではなく、関係の中でしか成立しないのが人間。人間関係なしの人生とはありえない。そこで難しいこの「間」。どこまで熱く関わればよいのか、どこまで近づけばよいのか。今年はこのことについて大変勉強させていただいた。
相手との快適温度・快適距離。これをみつけることがコミュニケーションには不可欠。もちろん自分だけがそうでなく、相手もそうであること。
なかなか難しいことである。この実践の鍵は「笑顔」と賢明さではないか。

精神世界でのお役立ち
テロのとき、同じ飛行機に乗り合わせ一緒に助かったSさんとはあれ以来の友人。なかなか会うことができないが、精神世界での共通点を感じているせいか、ほどよい距離の快適関係にいる。久しぶりに会ったとき、最近得度したという。もちろん仕事ももっているので在家の立場でのお坊さん。
やっと自分のしたいことができるような気がしてきた。世の中で困っている人の役に立てたらうれしいという。人それぞれの人生に対する思いがあるが少しでも世の中の役に立てたら・・という思いと、そのお役立ちの仕方がモノやお金でなく、精神的なものでのお役立ちであるというこの2点が自分の考えと共通している。誰しもが最後は心の問題にいきつく。そのときに、宗教でもそれ以外でもいい。人を元気にすることができれば・・・。Sさんと同じ思いで私も違う道のりを生きているつもりであるし、これからももっともっと・・その思いを大切に生きすすみたい。

心家族の時代
自分も含めてであるが非婚者の増加、少子化、高齢化・・・人口構造の変化の中、「家族」のありようが変わっている。
家族とは何か。人間の一番身近な社会であり、人生をともにする運命共同体であろうか?
私にとっては、互いに人として素直に向かい合うことができる関係であり、心に住んでいる存在であり、いざという瞬間もつきあえる関係か。そこには血縁・結婚という契約はあまり関係ない。心の家族なのである。
だから現在は兄も姉も妹も弟も複数いる。
その人のことはなぜか「どんなときも結局許せる」し、何かあれば駆けつける。
心の時代。自分次第で家族は大家族にもなっていく。でもその根本は依存ではなく、自立と尊重なのである。


Aug,2006

何事も「あと何回」の気持ちで
たとえば、NYから帰る朝はセントパトリック教会まで歩いていき2ドルのキャンドルを奮発して「また次も元気に来られますように」と祈っている。道を歩きながら、あと何回来ることができるのだろうといつも思う。食事もそう、あと何回美味しい食事をとることができるかと思う。家族ともあと何回会うことができるのかと思う。「あと何回」の思いは、1回の経験を大切に思う気持ち、周囲への感謝の気持ちを育む。「あと何回」に具体的な数字が入らないでい続けられることを心より願う。

ハーレムのソウルフードの母 シルビア
NYへいったらいつも気になっていたレストラン。ハーレムにあるソウルフードの店。何年も気になっていたお店のひとつ。美味しい食べ物は意外や意外、被差別者の生活から生まれるもんだと聞いてはいたが、ハーレムのソウルフードはとっても美味である。
ステーキも揚げ物も好きではない。でもそこのシルビアのフライドチキンも絶品。世界中、どこのママたちも、家族に美味しい料理を食べさせたいと思うのは同じ。まさに「マンマの味」は家族への愛情なのだ。食材にお金をかけなくとも、手間をかければ美味しくいただける。そんなことを教えられる、深みのある料理で、忘れがたい。あのシルビア母さんが忘れられない。さまざまな弊害や環境があっても、志があれば道は開ける。あのお母さんにまた会いにいきたい。一緒に撮った1枚の写真を見るたびに懐かしく思うハーレムのあの店。

「まっすぐ」生きるために「しなる」力
「まっすぐ」というのは純粋であり、穢れのない状態を指す。
あの人は「まっすぐだから」。これはほめ言葉である。しかし、長く人生を生きていくうちに、「まっすぐ」の意味を正しく理解しないといけないと思うようになる。芯はまっすぐがよいに決まっている。
自分らしく、自分の思いを遂げるのにふらふらしてはいけない。
しかし、どんなときも誰に対しても「まっすぐであってよいか」といえば、そうではない。まっすぐな思いを時には、曲げて見せる、折れて迎えることも大切なのだ。
しなやかに「しなる」力ともいおうか。決して自分の意思をごまかすためではなく、自分の生き方を全うするために、時には弓のようにキューっとしなる力も不可欠だ。
オンナは賢く、しなやかに。この重要性がわかりはじめた・・・。

「気」をつけての意味は・・・
最近、世の中に「気」を感じない人が増えているように感じる。
「気」とは宇宙との対話・調和。生命の証。物には「気」はないのだから。
その「気」があまりにも無頓着になっているような昨今。
気が自分が生きるためにも、そして社会とともに生きるためにも最重要なエレメントであることを確認し続けたい。
「気が利く」「気がつく」「気にかける」毎日の行動のたびにこのことを心がけたい。なかなか難しいが、意識することで個人差がつくのもそう、「気」とは生きるパワーなのだ。「気づく」人は世界が見えるしその分早く対応もできる。仕事もできるし、生活も充実し、友達も増えるはず。正しい「気」に満ちた幸福人を目指したい。

ココロよもっと深くなれ、大きくなれの呪文
心とはどんなカタチをしているのだろうか?どんな大きさなんだろうか。
と考えたことはあるだろうか。何か外部とのショックが起きると、心が狭く、小さくなる。つまらないことでくよくよしたり、人をうらやんでみたり。そんなときには、心に向かって話しかける「もっと大きく、もっと深く」そんな呪文をかけると、そうなれる。きっと心は伸縮自在の海綿体のようなものではないかと想像している。
どんなときも、幸福な気持ちであることが何よりも大切。そのためには常にポジティブな心であることが大切。だから、辛いとき悔しいときは呪文を唱えよう。「ココロよココロよココロさん・・・深く、広くあれ」と。
そんなことをくりかえせば、もしかしたら世界中の矛盾をも呑み込める大物になれるかも・・・。

若者たちの熱狂 夢をみる仲間としての共同体の力
社員の平均年齢が20代という会社にも出かける。そこでのイベント。
社員たちは若き社長(38歳)を夢のシンボルと描き、自分もいつかは・・・
の気持ちでがんばっている。企業の成長、人づくりは、いかにひとりひとりの人間が夢を見続けて、それに向かって進めるか、その環境を提示できるかにかかっていると思う。単に目の前の条件のよしあしではなく、この先に「こうなれる」「ここまでいける」という具体的な目標があることが大切だ。
そんな環境で働く社員たちは熱狂的に仕事をし、そして遊ぶ。熱狂できるのは若さである。この力がまとまったとき集団はとてつもないパワーとして動き出す。経営者というのは 社員に夢を見させてくれるお手本でなければならない

Where are you from? が日常の挨拶の、「みんな余所者」でビッグになった国
アメリカでタクシーに乗ると、必ず聞かれる。日本から、東京からやってきたというと、うれしそうな顔。なぜか遠くから来ているというよそ者に対し、親近感をもつのがアメリカのワーカー?彼らも「自分もハイチから来たんだ」「パキスタンだ」今朝などは「エチオピアから」といわれ、一緒に笑った。
日本ではこの会話はない。そして、よそ者たちは遠い祖国・故郷のことを懐かしく語る。故郷のことを悪く思う人はいない。母なる地なのだ。このとき、私も日本のことを誇りをもって語っている。
初対面のタクシードライバーと「へえ。肉より魚がすきなんだ」という会話をしていること自体がおかしくて、この上なく楽しい。
いつも余所者であれ。その場所に、空気に慣れすぎることなく、緊張感をもって刺激的に生きる・・。そんな人生はなかなかよいと思う。

言葉は思い、そして重い。
最近講演などでよく言葉の意味から話すことが多い。何気なく使っている
言葉にも、実は大変な意味が込められていることが多い。そして漢字とは
恐ろしくよく考えられている表意の記号であることを改めて痛感する。
たとえば「人」という簡単な文字をとってもそうだ。しかし、私たちは
日ごろ、意味を考えることもせず、簡単に言葉を発している。
本当に思いを伝えるために、この深くて重い意味をもっと理解していなければ
ならない。
迷ったときは辞書を引こう。言葉にも流行廃りがあるが、真理は変わらない。
いつもその意味を必ず理解し、伝えたいことを確かに伝えよう。
言葉のコミュニケーションは簡単ではない。一言一言が本当に重いのだ。

年輪を誇りにできる人生に
高齢化社会を実感する世の中になった。そして自分もそっちへ向かって一歩一歩近づいている。30代後半気になりはじめた白髪。今はそれにも慣れた。
今は筋肉のたるみ、皺という現象への焦り。もちろん若々しくあり続けることへの努力は怠らず、できることはする。しかし、皺も見ようによっては人生の年輪。
老いることが醜悪であるということはない。生き方が素敵であれば、美しさは内面から溢れてくるはず。多くの先輩たちを見ていてそう思う。
毎日誇りをもてる生き方をしていれば、きれいになれる。きれいであることができる。やっぱり人間、中身が問題。中からも外からも刺激をたくさん与えて心が艶々であり続けるように生きていきたい。


Mar,2006

女性を大切にする国イタリア
3月8日は、すべての女性が祝福・感謝される日。町中では、ミモザの花が女性にプレゼントされたり、ブーケの形に見立てたチョコやキャンディーも贈られる。なんと国鉄に乗ってもすべての女性に贈られるそうで、たいした国民行事だ。女性はたとえ一輪でも花を異性から贈られたら悪い気はしない。
日本独自のホワイトデーとはちょっと趣きが違う。イタリア男はマンマを大切にするという。素晴らしい。今日本では雇均法だとか、あるいは育児休暇だとかハード面での社会で活動する女性へのハード面でのサポートは進んできたが、もっと基本的なこと。「女性に感謝する」ということが自然にできるようになれば・・・もちろん女性も男性に感謝である。お互いを認め、尊重し、感謝する。こんなことができる・・ことがまず大切ではないか。イタリアはすべてスローであるが、そこには本質が備わっている。

空の青さを感じることが幸せ
何が幸せか。お金をいっぱい稼ぐこと?肩書きが偉くなること?立派な家に住むこと?ブランド品を身につけること?高級レストランに行けること?
最近、一番幸せを感じるのは、御飯を炊いて食べるとき、散歩をしているとき、そして家族が元気でいることを確認したとき、そして空が青く澄み渡っているとき・・・。それを感じられることが幸せ。携帯ばかりに、パソコンばかりに目がいって、今日の天気に気づかないことはないか?
今、元気に、健康に生きていることを感じることが何よりも何よりも大切なんだと思えてきたら、スーッと余計な毒か力が抜けてこれまた幸せ。

NYに立つ聖徳太子
年に何度も通うことができないのに、メンバーになっているメトロポリタン美術館。毎度、なぜか優先して見てしまうのは、欧米の作品。せっかくアメリカへ来たのだからなぜかそうしてしまう。しかし!この広大な敷地の中にアジア館があり、そのなかに素晴らしい日本館があることを、なんと15年目にして初めて知った。巨大な仏像から、書院造りまで。尾形光琳の屏風画から、葛飾北斎まで・・・まさに日本の2000年の美術史が俯瞰できるコレクションである。よく海を渡ってやってきたもんだ。そこになんとPRONCE SHOTOKUの像が!日本でも最近見なくなった聖徳太子が立っているのだ。
日本人として、もっと日本を勉強しなければと思ったと同時に、このNYやパリなど芸術の国民的先進国において、日本の文化がきちんと伝えられていることに感激し、また誇りに思った。
日本人はやはりモノづくりの民族の集まりである。また繊細は表現をもった民族である。日本文化の特徴は「かな」だと、メトロポリタンの説明にあった。
日本のみなさん、「かな」をもっと大切に。といわれているようだった。

美しさは年に出る
メトロポリタン美術館は、ボランティアと寄付で運営されている。私の大好きなミュージアムショップでも老若男女のボランティアが接客をする。
いつも気になっていたのは、おばあさんスタッフ。これが素敵な人ばかりなのだ!きっとこの方は若いときから美術館が好きだったんだ。とか教養ありそうな人だなとか・・・とにかくその人自体が美術館というかその歴史を感じさせる人が時々いるのだ!昨日もそう。私が探し物をしていると、丁寧に丁寧に接客をしてくれた70歳ぐらいの方。彼女が途中で席をはずしたあと、代わりに元気な若者が対応してくれた。いずれも親切ではあるが、若者の接客には深みがなく、いちいち「SO PRETTY」とか単純すぎて、あまり感動を受けない。(もっともこっちの語学力もその程度なので・・・かもしれない)品定めをし、会計をしている間にその年輩の方は戻り、若い人の接客を邪魔することなく、静かに遠慮がちにその空気を読み取っておられた。
帰り際、私はそのおばあさんに、「あなたを尊敬します。私もあなたのようになりたいです。パーフェクトなサービスでした。ありがとう」といったら、おばあさんは顔をさらにくしゃくしゃにして喜んでくださった。私たちは握手をした。人は年をとれば、年輪が見える。美しさは年に出る。どんないい人生を送ってきたかが、顔に背中に出る。美しい老婆を目指します。

職業じゃない「生き方」なんだ 
10代から起業してずっと社長業をやり、東証一部上場企業最年少の社長との会話。「これはもう職業じゃなく、俺の生き方そのものなんだ。だからこの仕事が否定されれば自分自身を否定されてしまうという気持ちでいつも全力で生きている」
この言葉に大変共感する。そうだ。仕事の内容は違えども、自分も今の仕事は職業ではなく「生き方」であると実感することがある。だからONもOFFもない。いつも同時にいろんなことを楽しみながら見聞し、考え、行動する。一見遊んでいても仕事のことを考え、そこから湧くアイデアは無数であり、仕事をするにも自分から切り開き、これまでにないものを創っていく。これが私の生き方だから。ただ、ひとつの仕事に専念してそれを生き方にしている彼と、いろんなことにちょっかいを出す自分とはちょっと違うかもしれない。私は仕事に人生を賭け、その中で素敵に成長し、立派で魅力的な人に進化する彼をずっと応援し続けたい。その人がビッグカンパニーの社長だからでなく、一生懸命生きている人だから・・・である。

考える葬儀ビジネス
報道の世界では簡単に人が死ぬ。あまり実感がない。身近な人の死はいつも想像するだけでも怖い。自分の死はましては想像もできないでいる。最近は高齢化社会で、葬儀ビジネスも進化と発展を遂げている。手をかけずに、知識や経験がなくともスムーズに執り行うことができる。子供のころに目にした葬儀の場と今日のそれは、何かが違う。
もちろん人が死ぬということに対する畏れの気持ちは変わることがないが、何かその実感をほとんど感じることなく送ってしまう。どこかしらテレビドラマのワンシーンにいるような感じである。
これから高齢化社会になり、自分の周囲にもお年寄りが増え、身近な人が逝ってしまう機会も増えるが、そのことに慣れる日が来るのであろうか。いや、そんなはずはない。
いざというときほど頼れる人がいるのはありがたいこと。だからこのビジネスはますます需要が高まる。それにしてもこの業界は進化している。究極のホスピタリティ産業である。
開業時にはおためしキャンペーンのような企画もあると聞き、驚くのは私だけだろうか。

強くなる磁気 弱くなっていく磁気
最初出会う。この人とは合うなあとか、さまざまな共感をもってそのつきあいがはじまる。
その人とずっとつきあっていけるか、そうではないか・・・・。大変残念ながらすべての人と出会った日から同じ調子で長年つきあっていくことは不可能である。1年を過ぎると新たに出会った人、分かれていく人・・・いろいろである。凄まじい出会いのなかで毎日というページをめくっていると、どこかで整理しなければならなくなる。
つきあった時間の長さは関係ない。いつも自分らしく、自分が自然体で接していられるか。
そして気持ちいいか・・・それが磁気の強弱を決めている。
気持ちいい人と長くつきあえれば一番幸せ。そんな出会いをどれだけ紡げるのだろう。

上を向いて歩こう
大好きな曲のひとつ。坂本九というシンガーは本当に偉大であった。日本人に勇気と希望を与えてくれた。この他に「見上げてごらん夜の星を」も名曲。いつも上を向いて生きることを教えてくれている。これらの曲を口ずさみながら町を歩く。そうだ、いつも上を向いて行こう。いつの間にか背筋はピンとして生きている自分に誇りを持てる気がしてくる。
NYのコンサートのオーディションプログラムにこれも盛り込んだ。
いつか、世界の舞台で上を向いて歌いたい名曲。SUKIYAKI SONGというタイトルもおかしい。でも SHABUSHABU SONGでなくてよかった。
ところで、最近は365歩のマーチも素晴らしいと思う。あの時代、前向き・元気づくりの歌が日本を元気にしていたんですね。

長い握手は言葉にならない感謝のしるし
いつも親しい人と出会うと握手をする。相手の温度を確認し、信頼関係を肌で感じるため。
いつも強い手だといわれる。ぶあつい手といわれる。いつの間にかぎゅっと握る癖がついている。
先日、親しい人の最期のお別れは、長い握手で締めくくられた。その人は、弱弱しくなった手で握っているというよりはただ触れているという感じで私の手を離さなかった。
「ありがとう、ありがとう」。なぜか感謝の言葉と握手はよく似合う。力尽きるまで交わした挨拶のようだった。
あの余韻残る弱く長い握手が最期の挨拶と知ったのは数日後であった。
長い握手をしても、これが最期のお別れにならないように・・・・。
今でもあの弱弱しい感触が手に残っている。
自分は出来る限り、握られるより、握る人でいたい。それが生命パワーの発信と思うから。

もしものときは
毎年 遺言を書かねばと思いつつ、書かないで今年も暮れていく。人は万一のときはない、わが身には関係ないとどこかで思っている。
しかし、飛行機に乗ったり、見知らぬ場所へ出向くことも多い昨今 そして世界には危険がいっぱい・・・。
もしものときは、使い古しのパスポートと搭乗券の切れ端、ベートーベンの楽譜を棺に入れて、好きな町の地図と撮った観覧車やパリの街角の写真も一緒にね。
あと葬儀はいらない。何もいらないので、静かに葬ってほしい。そのあとは・・・・
やっぱりきちんと書いておこう。万一のときのことを、自分がいないときのことを想像するのはおかしな行為である。
でも、本当のもしものときは、潔く。これしかない。こんな世の中においては。それまでが勝負。

違うんだから!
人とつきあうとき、期待をしすぎない方がよい。自立している人から教えられることのひとつ。自分もいろんな人とのつきあいで、人は自分と違うということを大前提にすべてを考えることの大切さを痛感する。
世代の違い、生まれた環境の違い、宗教の違い、いろんな経験の違い・・・自分と同じ感性、価値をもつ人はまずいない。そして自分のそれが正しいとは限らない。
だから、違って当たり前だから、すべてそこからスタートするのがちょうどいい。
違うから・・・と思っていて、もし共通点がみつかるとうれしいし、期待しないで何かうれしいことがあれば、その感動はひとしお。
期待しない。これは悪い意味ではない。
何も足さない、何も引かないという名コピーがあったが、人間関係のバランスよいおつきあいも、そこが大切なんじゃないかな。
また、違うと思うことで、学べることは無限大。
ほどよい距離感が、成長になる。

いつでも頭を低く それができなきゃ営業じゃない
どんなに社会的地位が上がっていっても、常に腰の低い人がいる。また人より先に頭を下げることができる人がいる。それでこそ営業!といつも思っている。
そんなに複雑な思いであっても、たとえ異なる思いであっても、絶えず笑顔で相手に頭を下げられる。自分の都合ではなく、相手の立場になって謝罪する、礼を尽くす。
相手が喜ぶならばそれでいいのではないか。保身から始まると相手は喜ばない。
規模が大きかろうか小さかろうが、相手の立場にまずなれること。それがマーケティングの基本ではないかと最近思えてならない。
頭を下げるとは、聞く耳をもつということ。そこから本当のニーズが聞けるのだから。

一括りにするのはどうか?○○世代から思う、マーケティングの原点
2007年問題とか、団塊世代の定年時代とかよくいわれるが、だからといって、何もかもが一括りにできるということはない。たまたま同時期に生を受けたというだけでどんな人生を歩んできて、これからどうしたいかは千差万別。
括ってみたがる考え方自体がその時代の産物なのかもしれないが。
マーケティングコミュニケーションの世界をずっと横目で見ながら、世界中をめぐっていろんな人に出会っているうちに、人はいろんな括り方ができるが、それは一方向からの分類でしかなく、実はその人にとって最も大切なさまざまな属性を無視していたりすることもあり、つくづくターゲット設定とは難しいものだと思える。
人は生まれた時間、性別、場所、歴史、環境、関係、経済環境、教育、宗教などによりまったく違う思考をもち、違う嗜好をもつようになるのである。
もう一度、本来のマーケティングを考え直す時期に来ているのでは。

哲学は「よく考えること」
学生時代。哲学専攻というのがかっこいい・・・ただそれだけで・・・難解な哲学書を本棚に並べていた20代。社会人経験も対人経験もない学生のブンザイに、カントやデカルトがわかるわけない。今だからこそ、余計そう思う。
ヘーゲルの歴史哲学は歴史とは発展するという考え方が面白かったが、それ自体、なぜヘーゲルがそれを考え抜くことができたか、はたまた、哲学家というのは職業でプロの哲学家とかいたのかとか思えば思うほど 今だに闇の中・・・・・。
しかし、おかげさまでずっと哲学の周辺をうろついていた時間があったり、音楽に少しだけかかわっていたおかげで、「考えること、感じること」は好きになった。
そして、今もそうである、だから企画の仕事も好きなのであろう。
そして、今では「よく考えること」の大切さを痛感する。そして、一見当たり前にみえることに対し「なぜなんだろう」という目を持つことがいかに大切かも少しづつわかってきた。池田晶子さんという哲学家の方が、哲学とはそういうことだと書いておられたのが、とてもうれしく思った。(ま、こちらは底が浅いので、恥ずかしいが)よく考えるということは、いろんな現象を見つめなおすこと
問い直すことであり、あるべき姿を自問することである。自分とは何か。何のために生きているのか。おそらく哲学の終着点は死に向かう道をたどることではないかと思うが、それはすなわち生きることへの模索である。
哲学は難しいことではなくなった。生きている以上忘れてはいけない大切な心と
頭の動きである。それをデカルトは コギト エルゴ スム といったのではないか。
そう考えることをしなければ、それは私自身ではないのだ。
生きている以上、私であり続けたい。だから、よく考えて生きたい。まだ考えが
足りない自戒を込めて


Sep,2005

耳の硬さ
「あの人は頭が硬いよ〜」とはよく聞くが、台湾の友人に聞くと、顔相学によると、耳が硬い人は、頑固だそう。人の話を聞かないと、どんどん硬くなるのか、もともと硬いので、いろんなことに耳を貸せないのか・・。
友人は私の耳に触って「うん、まあまあ硬いね」とつぶやいた。

演じきるのが人生
人間にはいろんな顔があり、時々、その人の意外な面に驚いたりすることもある。さて自分にはいくつの顔があるのだろうか。
ある友人は4つだといった。その顔を使い分けているから、自分のバランスがとれるのだという。そしてその顔でその場面場面を演じているのだという。
そうだ、人間性はこの多面性が面白いのかもしれない。さて、自分にはいくつの顔があるか。そして演じるとは意識して生きるということ。パワーが結構必要だけれども、演じきる満足感を味わってみたい気もする。

93歳現役社長へ
拝啓 成瀬 廣さま。お会いしたこと、ありません。テレビで拝見しただけです。「仕事の上に金はない。仕事の下に金がある」「人・モノ 長持ち・無理せず・急がず」そのお言葉をそのまま93年の人生で実践されてきた方です。
パソコンなし、給料は手渡し、時代の変化に対応しているビズ スタイルとはいえないが
それを超えたカッコいい仕事ざま、生き様である。
趣味は社交ダンスと、これまた驚いた。いつまでもお元気でご活躍ください。人間は死ぬまで成長できるものだと教えてくださいました。いつか、絶対に訪ねていきたいです。
気取らず、いばらず、自然体。偉い人ほど、本当にそうなんです。
改めて教えられました。いついつまでもお元気で。心からの尊敬を込めて。

新聞に載るということ
自分自身のことが新聞に出るというのは、どこか気恥ずかしいものだ。載る内容は大したことがなくとも、それをみつけた回りの人から、「自分のことのように嬉しい」「誇らしく思う」とか、全く予想外の反応が寄せられると、マスコミに出るということは、凄いことなのだと初めて実感した。家族が新聞に載るという経験を知らない我が家では、「勲章もらったみたいやなあ」という騒ぎ。改めて、周囲の方に感謝の一言に尽きる。

死んだら困る人
最近、自分にとって自分より先に亡くなられては困る人をふと数えることがある。
その人たちは、自分の心柱であり、自分の星である。
なぜ、そう思うのか、好きな人たちがどんどん高齢になっていくからかそれに伴い、自分も年をとっていく。自分の大切な人にとって「死んだら困る人」で
いられるよう、日々精進したい。

ひとりの限界線 境界線
組織に属していないから、組織で生きていないから、「ひとりの力はたかが知れていますよ」といわれて、首をかしげたことがあった。その限界に挑戦して、その言葉が出るならよいけれど、限界も知らないでそんなことわかるのかな。
限界にはどんどん挑戦し続け、自分の境界線を広げたい。限界線も境界線も変えられるはず。と思っていたが、誰が見ても一般人の1000倍世の中に貢献している方と昨日話していたら、「僕がしたいことは、すべてはできないですよ。やはり一人にできることは限界がありますね」恐れ入りました。その方の夢は、世界制覇だったようで・・・。

不安を乗り越えるイマジネーション力
生きている以上、不安定なもの。なぜか 一番大切ないつまで生きていられるかがわからないわけだから。人間は具体的な事象に関する「心配」よりも、もっと抽象的で漠然とした「不安」という存在にとりつかれ、最近では精神を病む人も増えている。
安定しているのが普通、安心安全が基本と思っているから不安が大問題なのであって、最初から不安である・・・と思ってしまえば、何も怖いものはない。
ほんとうに不安なことはないかといえば嘘である。明日は仕事がなくならないか、病気にならないか、好きな人が死んでしまったりしないか・・・。しかし、考えていてもどうにもならない。常にそんな万一のことを想像しながら、心の備えをし、今はそうなっていないという現実に感謝して、楽しく生きていこう。
不安だ、不安だといっているだけでは何の解決にもならない


何かに飽きている
情報も モノも コトもいっぱいだ。満ち溢れているというよりは、余っている。なぜこんなにいっぱいモノを作ってしまうのか?
なぜこんなにどんどん新製品を出そうをするのか?同じものをどこでもここでも売るのか?おかげさまで、「ありがたい」の気持ちや、「あれがほしい」の欲求は失せる。ただ、ストレス解消に、気分転換にモノや時間を消費しているような気がする。
何かに飽きている。いつ死ぬかわからないのに、飽きてはいけない。
飽きない環境を創っていくことが自らが幸せになる手段であると思う。

涙の発言
台湾の若者は上海に出ていく人も増えており、台湾に残る人々との
意識のギャップが生まれている。それはずっと植民地として続いてきた
この国の宿命ですね。教育の問題ですね。いかに自分の国に愛情と愛着と誇りをもつ人間を増やしていけるか。それがその国にとっての繁栄の道であると。
わが尊敬する師は涙を浮かべ、そう語ってくれた。
あの涙を一生忘れないし、いくつになっても、夢を忘れない生き方をしたいと思う。
日本人は平和であり、幸せな民族、国である。そのことをまず、肝に銘じたい。

あと何回
子ども時代の罪滅ぼしに、親を時々旅行へ連れていったり、食事をしたり親孝行もどきをする年齢になった。
いつも思う。あと何回会えるか。あと何回できるか。
わからないけれど、次の約束をする。「今度はここへ行こう、今度は何を食べよう」毎日食べさせ、毎日生活の面倒を見てくれた親の苦労を思えば旅行やご馳走、プレゼントはまやかしに過ぎないことを自分でもわかって
いるが、でもそれしかできない、それがせめてもの・・・気持ち。
あと何回、あと何度・・・わからないが、1回でも多くの感謝のお返しをしたい。

一番面白いもの
人間を見ているのが一番飽きない。駅や空港、レストラン、庭園、会社
どんな場面にも自分以外の人間がいっぱいいる。
同じ人間でも見られていると意識している顔と見られていないと無防備な顔はまるで別人のようであり、人は多面的であり、実に奥深い。
本を読むのに飽きたら、仕事に疲れたら、人間不信になりかけたら、人間観察をするのがいい。
そんなときに、「あ、素敵」と思える横顔や 後姿に出会ったりし、気付かないうちに、新たな一歩がみつかることもある。

目の黒いアメリカ人 サングラスをかけないイタリア人
NYでいつも会っている日本人友達と東京で初めて会った。
なんだか不思議で違和感も少々。彼らは浦島太郎になっているようで、東京のいろんな現象を驚いたりする。英語訛りの日本語も・・・。
自分にとって当たり前のことでも、彼らにとっては新鮮な様子でいろんな質問を受けたりする。
「何が食べたいですか?」と聞いたら、「SASHIMI」といってくるところも、どこか日本人離れしている。一方、シシリーで出会った青年シェフ。帰国して東京で再会。イタリアで出会った彼はサングラスをかけて、一見野性的かつラテンな雰囲気をかもし出していた。日本で見た彼はサングラスをしておらず、とても優しい感じに。「なんだか別人みたいですねえ」「日本では皆さんサングラスしてないので、おかしいかなと思って・・・」。
人は住んでいる町や国でその表情や装いが変化する。違う場所で出会っても気付かないかも。人は環境によって変化する。

雲は何の象徴?
友達のお母様が亡くなったとき、病院の霊安室の天井に空が描かれていてとってもおかしいと思ったという話をした。
私が行くエステの部屋の天井も空に雲が浮かんでいる絵が描かれている。
大好きなテレサテンのお墓参りに行ったとき、あの墓地の下に雲があった。
雷神は確か雲に乗って登場する?
人間が描く「雲」のイメージがとても不思議である。

なくなると聞いて、急に惜しくなる
10年以上愛用している、矢来町の書店が3月末で閉店するそうだ。
え?世の中で書店・文具店経営は大変だとよく聞くし、閉店の話も よーく聞く話なのに、ここだけは別と勝手に思っていたのに。
なくなると聞くと急に「へー、困るなあ。」と思うと同時に「さみしいな あ」という気持ちが沸いてくる。
私にとっては、本屋は大好きな逃げ場所であり、気分転換点であり、 やる気創造接点だったのに。
人の気持ちをほぐす場所が、少しずつ減っていく。さみしい。

がんばれ役者の卵
久しぶりに若者の演劇を観た。知り合いの息子さんが出ている、観に来 てほしいといってくれたから。
10代の役者の卵たちが一生懸命に踊り、語り、歌う。
今どきの若者は・・・と思っていたのに、このステージに立っている 20名の男女は違う。ブロードウェイを思い出した。
ステージに立つことの快感は一度覚えたら忘れられないはず。
生きた目で、はりのある声で、伸びた背筋で・・・。いいぞ、いいぞ。
私の涙にはいつしか涙が。表現者には心からの声援を贈りたくなる。
がんばっていい役者になってください!

「風の人」
「あなたは風の人ですね。」とよく言われる。昔昔、シルクロードをたどってやってきたジプシーですかとも。
森の人というのは、じっと待って多くのものを受容できる人だという。
風の人は、じっとしていない。いつ現れるともなく、また消える。
つねに動いている。そして、発信をし続けるそうだ。よく考えたら迷惑な話かもしれない。
「風」には、台風とか北風とか雨風とか悪い印象もあるじゃないか・・・。
でも、当たっている。確かに私はそうだ。
そして、なぜかジュディオングの歌を思い出した・・・。

「酒場の名刺」は無用?
時々、飲み屋で気が合って名刺交換とかする人もいる。
私も時々いただいたり、お渡ししたりするけれど、そこで出会って素面の世界でもおつきあいがその後続いた・・・というのは数少ない。
酔っていただいた名刺の先に連絡をするのは、どうも恥ずかしいような・・。
酒場では名刺はなくてもいいかも。
お酒を飲んでいるとき楽しくても、昼になるとからきしつまんない人もいるし・・。酒場は酒場のおつきあい。芸名でも偽名でもなんでもOK。と最近、酒場のつきあいがちょっとだけ理解できるようになったかも。 

できることでいいから、すぐやること
神戸や新潟の震災のとき、忙しくてボランティアにいけなかったことを悔いるといったら、悔いることはない。できるときに、したいと思ったときにすればよいのだから。したくてもできないとき、他に自分にとって優先順位が高いことがあるのであれば、それは仕方ない。ボランティアとは何の駆け引きとも無縁に、まさに自ら自発的に行動できることを指す。これは人のためではなく自分のためである。また大きなことをすることだけがよいということではない。自分ができること、小さなことでよいから、しようと思ったとき、できると思ったときにすぐ行動することが大切。口だけで何もしない人より、黙ってさっさと行動する人が美しい。そんなことをいろんな人から教えられた2004年末。

心に永遠に残る贈り物
誕生日やいろんな記念日に贈り、またいただくプレゼント。何を贈ったらよいか考えるのも楽しい。台湾出張に行った際に、友人がくれた思わぬ誕生日プレゼント。
それは白い大きな花束だった。「花は日本に持って帰ることができないけれど、台湾にいる2日間、楽しめますから」。この言葉は最高だった。確かに花はどんなギフトシーンにも万能選手。枯れるまでの限られた時間を惜しみながら過ごすのもよい。まさにモノではなく、心を贈ることの大切さを学んだ。

観客は「かぼちゃ」ではない
大勢の前で話したり、歌ったりするとき、よく「かぼちゃと思いなさい」といわれた。ところがどっこい、観客はかぼちゃどころではない。退屈だったら、寝てしまうかもしれない。飽きたら他事を考え始めるかもしれない。私にとって、観客はとっても怖い「鏡」である。瞬間瞬間をないがしろにしない、最高のおもてなし、最高のネタをステージに立つ人は心がけなければならない。

人さがしは検索サイトで?
高校時代の同級生がいきなりwebの掲示板に書き込んできた。23年ぶりの再会?となった。なんでも、検索サイトで名前を入れたらホームページが出てきたとのこと。もしネットがなかったら一生会うことがなかったかもしれない旧友。そんな文明の力で再会できた友情を、あたたかくつむいでいきたいと思う。それにしても、人の名前を検索するというのは、まさにわくわく「wanted」な気分。会いたい人がいたら、まずは名前を入れてみる?

人生のバランスをとるために
チャリティオークションで集まったお金をピンクリボン運動をやっている団体へ寄付に行った。お仕事をしながら、乳ガン早期発見の活動をするボランティア団体を運営されているJ-POSHの松田さま。「仕事だけの人生ではなく、バランスのとれた人生にするためにこんな活動をしているんですよ」という言葉にジーン。
そう、ボランティアでもいい、趣味でもすべての活動は、そういう目的でするといい。
私も自分が思うことをどんどん行動に移していこうと思う。それはやっぱり自分自身のバランスのためなのである。

「がんばれ ちりめんじゃこ」
大好きなお好み焼き。素敵なお店を世界的に展開しているあの千房の中井社長の講演を聞いた。どこをとっても感動的なお話で、全身まるごと共鳴したが、そのなかでも、一番印象に残ったのは、乾物屋修行時代の「ちりめんじゃこ」との対話。目方を図るため、ざるに入れられたちりめんじゃこ。ふと、ざるの裏にへばりついているちりめんじゃこを見て、「がんばれ。もう1回チャンスやるから、今度はざるに入れよ」と声をかけられたとか。落ちこぼれの可能性をそこから見出したともいわれた。
人間は、そうみな、ちりめんじゃこと同じ。どんなざるにすくわれたいのか・・・・も考えどころ。あの発想・視点をもたれた、あの方にはぜひともまたお会いしたい。
人間は、どんな場面でもその気になれば、学ぶことができる。素晴らしい!

マーケッターには「色気」が不可欠
よく講演なんかでマーケティングとは・・・という話をするが、最近思うのは、消費を刺激するのは、人々の「色気」だと思う。よりきれいに見えたい、かっこよく見えたい
あの人と一緒に楽しみたい・・一緒に美味しいものを食べたい・・・そんな欲求に見事応えたものがビジネスとして成功している例が多い。またこの欲求に対する価格は、安ければよいというものではなく、高くても満足度が高ければ人は財布を開く。
日本のマーケティングは贅沢な時代に突入しているといえるが、色気とは人間が生きる上で不可欠なエレメンツであることも忘れないでいたい。
いくつになっても、色気をなくしてはいけませんね。

心の金メダル
 人はなぜ「金メダル」を目指すのか。それは勝利の印だから、夢の象徴だから、究極の「一等賞」だから・・・・。そしてそれは、自分との闘いに勝った「証し」でもあることに一番の価値がある。
私は速く走ることも、高く飛ぶことも、美しく舞うこともできない。でも、私なりのメダルを求めて毎日を走っている。そのメダルは「小さな感動」という目に見えないメダルである。生きている間に、いくつのメダルを集められるだろう。そんなことを意識するだけで、毎日が心地よい緊張に包まれる。
オリンピックは人生の縮図だ。

NYへ行きたい病
25歳ではじめての海外・・それがNYだった。15年間、もう何度飛んだか数えなくなってしまった。それぐらいあの町にハマってしまった。
ファッション、フード、アート、人間・・自分の興味関心がすべてあの町にある。
自立した精神を鍛えるため、ニューエナジーを得る「最高の基地」である。
だからいつでも行きたいときに足を運んでいた・・。
3ヶ月に一度、1日でいいからあの空気に触れたい!という願望がある間は
自分の活力は衰えないと信じている。
心が渇いた日には、ふと目を閉じる。ロックフェラーの巨大クリスマスツリーを、セントラルパークに積もる雪を思い出す。そこには私のソウルシーンが
ある。そして、またそこに向かうためのエネルギーが湧いてくる。

家族の誕生日
いつの間にか、家族の誕生日を大切に思うようになった。
両親の誕生日には「あなたがいてくれたおかげで・・・」と感謝の気持ち
を伝えたい。人生の後半を生きる彼らの誕生日、まさかあと40回も祝うことはできないから、せめて1回1回を忘れずにいたい。
65歳になった母親は仕事をしている。「もう年やで、しんどいわ」その言葉に
「がんばれ、がんばれ」と無責任な応援。でも、できればずっと現役でいてほしいという願いがあり、そして彼女が働いた年まで、自分も働かねばならないんだ!と私自身を鼓舞している。
誕生日というのは、生への感謝を再確認できる、最高の記念日である。

福顔願望
台湾へ行くと、「あの人は福顔で・・・」という話を聞く。無欲でありながら
人のために役に立とうとしている人、その人自身から何かハッピーホルモン?が出ている人が世間には少なからずいる。
そういう人には知らぬうちに人が集まるそうだ。
こればっかりは、美容整形してもなれっこない。
内面を磨く、人に優しくする、役に立つことを最大の慶びとして日々を生きる。
その積み重ねが「福顔」になる秘訣だろうか。先天性のものだろうか?
いずれにしても、笑顔を絶やさず、福をもたらす・・・そんな「気がする」人になりたい。

暗記を忘れました
中学生の頃、暗記は苦手だった。集中すれば覚えられるが、本当に理解していないことをインプットすることは意味がないと思うから・・。
私たちの世代も、やはり受験戦争で暗記をし、一夜漬けでもって、その戦いを突破し、社会人になってきた人も多い。「エリート」の定義はわからないが、
言葉だけ知っていても意味がないということを今さら痛感する。
大切なことは、生きた体験、感動・・・。
それが仕事に役立ったり、豊かな人間関係に通じたりする・・・。
40代の勉強とは何か。きっと経験を叡智に導く訓練だと思う。
だからこそ若いときからの体験が生きる。今でも遅くない。もっと町に出て、
人に出会おう・・。

泣く女は長生きする?
20代の頃、オンナは泣く動物だから、長生きだ。といわれたことがある。
涙を出す行為は、体内にくすぶる悪い感情を外へ出し、浄化することだから、
泣いたあとは確かにスッキリする。。だから心新たにスタートできるということらしい。男は格好悪いから泣けない。だから心の毒が体内に蓄積され、それが病気の原因にもなり早死にする・・・とか。真偽は定かでないが、涙を流すことは確かに気持ちいいことかもしれない。喜怒哀楽。どの場面にも涙は登場する。
よく笑い、ときには泣き、怒り・・よく生きる。涙が出ない人生は平坦だ。
ところで最後に泣いたのはいつですか?

情熱ショコラ エナジーショコラ
以前パリの地下鉄でスリに遭ったとき、助けてくれたパリジャンヌがご馳走してくれた マックのブラウニー。「ショコラは元気になる食べ物よ、さあ、食べなさい」と。
それ以来、旅先でショコラをみつけるのが楽しみのひとつ。最近お気に入りばベネチア空港でみつけたペペロンチーノ入りチョコと・・・。いつもバッグにほんの一粒忍ばせておきたい魔法の薬である。

ただ見ているだけで、ただ居るだけでの「幸せ」空間。
NYのタイムズスクエアのホテル37階の角部屋。そこからは、ハドソンリバーとNYの高層ビル群が一望できる。そして晴れた日の夕暮れは最高。静かに静かに今日というかけがえのない1日のカーテンコールを見守るのが好きだ。東京に住みながらも、ときどきあの風景に身をおきたくなる。時々自分の居場所を変えることで、新鮮な発想が湧いたりする。できれば、1箇所ではなく何箇所も自分の居場所をもっていたい。
ただ見ているだけで居るだけで・・心が和み、力が湧く そんなMY FAVORITE CITY ・・NYである。

みんな人生という「ステージ」を生きている
どんな人も、それぞれの人生を演じているんだなあと時々思う。いろんな顔・役割をもって・・・。それらを演じる中で自分自身を模索し続けている・・・。
自分の人生をステージと思うかどうかは人次第。私はそう思うようになってから、生への執着・こだわりが強くなったように思う。
NYへ行くと必ず劇場に足を運び、ミュージカルを観る。あのステージに上がれるのは厳しい訓練を重ね、そして強運をもった役者たちである。彼らの演技を観るたびに、自分の生き方はまだまだと思う。ステージに立つ人は、失敗を許されない。瞬間に観客を呑み込み、感動を与える。言葉で表現できないパワーを放出する。この緊張感がたまらなく好きである。

万里の長城を上から見る  
壁とは何か。見方によって、まったく違う面が見えてしまうことがある。
壁を壁と感じないためには、上から俯瞰でモノを見る習慣づくりが必要である。
壁を作らない生き方を目指そうという意味。

HISTORYは「彼の物語」
どんな人にも、どんな商品にもHISTORYがある。背景はとても大切。その人やモノの大切なエレメンツであるだけでなく、その存在そのものであるから。
ある人と話をしているとき「HISTORY」とは「HIS STORY」であることを知った。彼とは「GOD」。歴史とは神が創った物語だそうだ。
すべての現象は偶然ではなく必然だということだ。このモノの見方はまさに自分が生かされている存在であることを知るとともに、どんなものにも「HISTORY」があることの意味を考えさせられる。
さて、MY STORYは…、ミステリー?。

今日の櫻、京のさくら
日本で櫻が一番似合うのは、京都だと思う。東京の櫻はどこか男性的な咲き方をし、京都のさくらは、はんなり、やさしく、はかない…憧れの女性のイメージ。
さて、人生を櫻にたとえる。美しく咲くのは瞬間かもしれない。そして咲いたら散ってしまうという哀しさもある。でも、誰にでも開花の季節があるはずだ。そのときを楽しみに瞬間瞬間を惜しみながら生きてみたらどうだろうか。

タクシードライバー賛歌
タクシーに乗って、ドライバーと話すのが面白い。いろんな人生をその都度見聞できる。いろんな動機があって、その道に進んでおられる。話して楽しい、味がある方がプロのタクシードライバーだと思っている。もちろん安全運転は大前提。
昨日のうれしい話、京都のホテルから駅まで乗った車のドライバーが「今日は雨で、車が渋滞してしまいましたが、あなたのようなお客さんに出会ってとっても楽しかったですよ」といってくれ、車を降りたら、いつまでも手を振ってくれた。

天国は眠るところ?
天国ってどんなところ?考えたこともないが、ヨーロッパの教会で見る宗教画では天使のイメージ?とあるホテルで「HEAVENLY BED」というふわふわで心地よい寝具を開発、客室で使うのはもちろん、通販もはじめた。まるで天国にいるかのような寝心地だ。
一番、人が幸せを感じるのはもしかしたら、「グッドスリーピング」なのかもしれない。そのベッドを求め、私は旅に出るのが好きだ。

一番のご馳走
日々、打合せやいろんな集まりで外食が多い。話題の店や新しい店も時々は行く。外国に行けばホテルでルームサービスもとる。食べることには選択肢が多すぎる今日この頃。
でも、時々「ああ、たきたての白ごはんに生たまごと醤油をかけて食べたい」と思い、それが実現すると本当に満たされた気もちになる。子どものときにご馳走と思った?ものが大人になってもそのままのようだ。それがソウルフードというものだろう。そんなことを思うぐらい、今の食生活は豊かではないということだろうか。皮肉である。

  << 2007