何を隠そう、母は美空ひばりのようなステージママを目指していたかも?
音楽の世界には3歳のときから首を突っ込んでいたようだ。幼稚園のオルガン教室である。そして、小学校へ入るとエレクトーンを習い始めた。母親の少女時代には、兄弟姉妹が多すぎて、習い事など一切できなかった、また母は音楽好きだったようで、その情熱が自然に私の音楽教育へ向けられた。
アルファベットさえままならぬ母がエレクトーン教室の後ろに座って(当時はグループレッスンだった)必死にAだのCだの、先生がホワイトボードに書くコード名を手帳に書き留めていたという。今でも思い出す。レッスンの先生が「昌子ちゃんのお母さんほど熱心な親御さんはいなかったよ」といわれていたのを…。
小学1年、2年で週2回のレッスンは当時では珍しかった。音楽のレッスン以外には何も習ったことがなかったが、とにかく、学校が終わると教室に行くか、家で練習するかの毎日だった。ピアノ、合唱、作曲、エレクトーン、音楽理論…。
そのうちに、コンクールだ試験だ、発表会だの…と音楽漬けの生活になり、そのうち、コンクールで全国大会とかに出るようになると、朝から美容院(いや、当時は理容院)に行って、学校を休んで選考会に出かけたり…ちょっと芸能人? 的な体験もした。それから19歳、家を飛び出すまでの十数年間は、本当に音楽漬けの生活であり、その背後にはがんばる父母の姿があった。
しかし19歳、ピアノを捨てて京都へ出る。「東京の音楽大学へ行かせてやるから、将来面倒見てくれ、養子をもらってくれ」といい続けられたことが原因である。たった1度の人生はそんなことでは決められない。
そして十数年ぶりに音楽復帰して、わかったこと
あれから十数年、大学は文学、哲学。就職は印刷会社、マーケティングとますます音楽からも故郷からも離れていた私に、ひょんなことから演奏活動再開のチャンスが訪れた。それは、エキゾチックイタリアンレストランの社長 渡邉さんだった。お客としてお世話になっている間に、なぜか遊び半分で、ピアノ演奏の機会が与えられた。それはカンツォーネの伴奏だった。
それまでも、時々私は酒場にピアノがあると、弾くことがあった。そして、心の奥で、ピアノは絶対忘れてはいけない、離れすぎてはいけないと思っていた。本当は大好きだったのだ。意地で弾かなかったのだ。
さて、そのイタリアンレストランへは、イベントがあると演奏に出かけた。最初はバイオリンとのデュオだった。のち、恵比寿店の毎週金曜の演奏の依頼が入った。マーケッターをしながら、毎週演奏活動を続けるのは正直無理があった。出張も多く、クライアントや仕事の状況によっては時間も不規則な仕事である。
しかし、私は2000年1月から海外出張でない金曜の夜は、「恵比寿Day」と決め、フライデーピアニストとして、出勤した。台湾出張の帰り道、空港から駆けつけたことも何回もある。夜の演奏のために、朝から着替えをもって、マーケティングの打ち合わせに出かけることもあった。18時まで「商品をいかに売るか」の議論をしたあと、「お客様をいかに楽しませるか」の世界に入り込むのは、不思議な感覚である。レストランは明らかにお客さまがリラックスし、楽しむために来られる場所である。その様子を舞台裏から、つまりピアノを奏でながら観察できるのは、大変興味深い。
人はどんなときに一番幸せな顔になるのか? それは楽しい時間を過ごしているときだ。美味しい料理、楽しい会話、愛する人、そしていい音楽…。
ピアニスト マーサにもいろんなお客さまが言葉を交わしてくださった。チップをいただいたこともあった。そして、私の演奏だけでなく、話を面白いといい、友達になってくださる方もいた。そこに通ってくるアーチストたちとも知り合いになれた。いつしか、私にとって金曜の恵比寿の夜は、自分にとってのスイッチオンタイムであり、充足のひとときでもあった。
十数年前に忘れたはずの音楽が、自分を再生してくれたような感覚になった。
ある日、私は昔ステージママだった母(もちろん父同伴)を恵比寿へ呼んだ。母は、私がどんな仕事で苦労し、成功したときよりも、ピアノを弾いていることを喜んでいた。「ピアノ弾いているもんな~」マーケティングというわけのわからない仕事をしていることより、下手な演奏であっても、人様の前で弾いている方が、母の夢をかなえていることになるのだ。私が演奏していると母はよく写真を撮った。昔のレッスンのときと同じぐらい積極的だ。恵比寿ではささやかなパーティーをした。ピアノも弾いた。
その1ヵ月後、恵比寿の店は突然に閉店した。18ヶ月のノスタルジックピアニストの卒業である。
ステージはそこにあるのではない、つねに自分で作るもの
さて、金曜の夜もマーケティングの仕事で顔に縦皺が増えるのは考え物である。なんとか早く脱皮しなければならない。どう考えても、私はこの道もあってのコミュニケーションクリエイターなのだから。次のステージを探している。近いうちにまた、いつもと違った顔つきで過ごせるようになると信じている。その日のために買い込んであるドレスもある。
いずれにせよ、恵比寿では本当に素晴らしい経験をさせていただいたと思う。お客さまの結婚式にまで行ってしまったんだものな…。
「ひまわり」「枯葉」…20世紀が残してくれた素敵なメロディーを私は死ぬまで、自分のために奏でていきたいし、幼い頃、本当に一生懸命ステージママをしてくれた母と、アッシーくんであった父に報いたい。とそんなふうに思っている。
書いて、話せて、歌えて、弾けて、人を喜ばせることができる。そんな人を今も目指している。
恵比寿に通っていただいた方々、本当に本当にありがとうございました。心より感謝申し上げます。
そしてコメスタの渡邉社長様、ありがとうございました。
マーサは、また新しくなります。次のステージでお会いしましょう。
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