「あなたは何人(なにじん)ですか?」と聞かれたら、「日本人です」と応える。当たり前のように。そのときにどんな気持ちで応えているか。経済力という点からまた技術力から、勤勉性から見たときには、「誇らしく」応えるかもしれない。あるいは何の意識もなく「日本人です」と応えているかもしれない。
また、一方で「もし、自分が日本人でなかったら」と考えるときはないだろうか。もしも経済的に恵まれていない国の、あるいは植民地として存続しなければならなかった国の出身だったら、または歴史的なさまざまな悲劇のために自らの母国について誇りと思えない人がいるだろうか。いるかもしれない。わからない。「あなたは何人ですか?」の質問に対し、場合によってはちょっとためらう人もいるのだろうか。
なんとも恵まれた環境に生まれ育ったおかげで、私はこれまで日本人であるということに対し、基本的に誇りをもってきている。もちろん、私という人間のアイデンティティーを支える要素のひとつが「日本人であること」であることだから、自分がアメリカ人であるとか、プエルトリコ人であるとかは今のところ考えにくい。しかも、単一民族国家の日本においては、国内にいる限り、日本人である自分を意識する機会は少ない方だろう。
しかし、アメリカやヨーロッパのように、多数の民族が混在する社会においては、つねに「○○人」というのが、相互理解のために、共存のためにすこぶる重要である。海外に行けば、必ずパスポートの携帯とともに、つねに「アイムジャパニーズ」というセリフがつきまとう。初めての人との会話の最初の方にこの言葉が出てくる。海外渡航の機会が多いので、そのパスポートは命より大切。パスポートは自分の心の貯金通帳であり、どこの国に行っても、自分を証明してくれる大切な存在である。
しかし、今回の中国訪問について、私の気構えは、普段とちょっと違った。まず、空港のイミグレーションでパスポートを出すとき、ちょっとためらった。「あ、この係官、私を日本人だと思ってるわ。視線が…」パスポートは自分が日本人であることを示すものなのに、今回ばかりはそれをちょっと恨めしく思った。タクシーに乗るときも、英語圏アジア人を装っていこうと心に決めたり(中国語で下手に挨拶するとすぐにばれてしまうので?)、もし、運転手が意図的に日本語で話しかけてきたら、無視するか、英語でフィリピン人だといおうとか…携帯電話での会話はやめようとか…とにかく、何事も起きないように、ただ静かに、静かに、目的地に着くのを願った。街の中でも、なるべく日本人に見えないよう、英語圏アジア人に見えるように装った(結果、いつもと同じであった)あと、中国人が群がって、何か話しをしているようなところには、なるべく近づかないようにした…しかし、半日もしないうちに、私は、マスコミが報じた上海での反日行動とは、本当にごくごく一部のエリアの話であり、多くの上海人には無縁のように感じた。また一見日本人に見えないように行動する自分を疑問に思えてきた。それは大変不自然で正しくない武装だと。
実際、カフェやブティックに行って、その店員が不機嫌なのも、ホテルのラウンジの女性の目つきが今ひとつ優しくないのも、実はこれは、私が日本人だからではなく、もともとそうなのである。そう、それ自体が前からそうだ。だから別段驚くこともない。今さら不快に思う必要もない。
上海市内浦東のスーパーへお茶を買いに行った。親切な定員さんだったので、笑顔とともに自然に会話も生まれる。「どこから来たのですか?」「いやー、日本人ですよ」と思わず…。でも、彼女は「ああ、そんな遠いところから…」という態度で、最後は「またおいでくださいね」と見送ってくれた。個人レベルでは中国人と日本人は、決して敵対する関係ではないことを再認識し、安心する。「何人」である以前に私は「お客」である。
日頃、社会で起きる事件について、マスコミが報じるところから私たちの認識は始まる。マスコミの視点や方向性に従って、現実への理解が進む。最近、私の理解ではマスコミとは、「広く伝える」役割以上に「大きく(過剰に)伝える」ことを勘違いしている向きがあるように思える。テレビや雑誌、新聞、あるいは速報性ではダントツのインターネットの影響により、人々の行動や判断が惑わされる、そして誤解を生むことも少なくない。今年のGWの旅行客では中国行きドタキャンが多かったようだ。少しは平常ペースに戻りつつあるといっても、また夏の終戦記念日に向けて…心配は続く。
世界平和・環境との共存を名目に、「愛・地球博」が賑々しく開催され、各国要人たちの来日が絶えない。華々しいイベントが民間レベルでも繰り広げられ、ネット時代といえども、「ライブな文化交流の場」としての万博というイベントには意味があるのだと妙に納得したり…(でも70年の万博のときの方が絶対感動的だったことに間違いはないが…)一方で、イラクではまだまだ不安定な情勢、そこに国の判断で派遣されている自衛隊。「日本人」の名の下の使命であろう。石を投げる中国人の行為に対し、国家レベルでは弁償だ、謝罪だといっている。そのレベルでの交流・交渉・協議はもちろん重要であり、それは人々が安心して生活するためのインフラなのであるから政治家には自覚をもってがんばってほしいが、でも、しかし、私は最近、国とは政治家が創るだけではないということを、実感する。
もちろんすぐれたリーダーの存在は、不可欠であるが、まず、そこに生きるひとりひとりが、誇りをもって、主張をもって生きることができる環境を創らねば。…そのパワーの集積こそが国をも変えることがあるはず。また、国レベルであっても、個人レベルであっても、自己主張ありきではなく、まず対話ありき。相手の状況、立場を重んじた働き方をすることにより、「真の友好」は生まれると思う。先に「相手に耳を傾ける」…この姿勢が双方の関係をよくするコミュニケーションのありようではないか。自国の都合、自分の都合を先に主張するのは、あまりに幼稚…。
今回、反日デモに参加した人たちは、日本製の商品が大好きな若者が多かったそうだ。あれはあれ、これはこれ…と自己中心な若者が増えてきているのは、教育の問題。どこも共通か。哀しい限り。
そう、国を創るのは、大人になってからは自覚の問題。でも、それより前に子ども時代に教育の手により、すでに思考の基本形ができてしまうから、国を創る根本はやはり「教育」なのだ。これも人任せにはできない。制度を作るのは役人の仕事であっても、人を創るのはそうではないから。子育てで、仕事で、各自の立ち位置の中で、「まずできること」を心がけたい。
ニューヨークの夜中のテレビCFより。商談の場面で、ずっとずっと頭をひたすら下げ続けている日本人グループを前に、居眠りをしてしまうアメリカ人というシーンがあり、日本人としてちょっと複雑であった。でも、私は日本人。誇りをもって世界に働きかけたいと思う!
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