人間は何のために生きているか。そんなことをよく考えるときがある。生まれ、いつの日か成人となり、仕事をして、結婚して、子どもを生み、育て…いつか死ぬ。その過程にはいろんなスタイルがあり、生き方や価値感は人それぞれであるが、単に「人生は食べるためだけに在る」のではないと多くの人が思っているはず。仕事があり、お金も多少はあり、住宅もあり(ローンもあるかもしれないが)、好きなものはだいたい手に入れることができ、一見豊かなくらしをして、世界中探しても日本以上に「恵まれている」国は少ない。(もちろんそこに孕む問題はあるが、それは別の機会に述べることにして…)
最近、私の周りではいろんな「活動」をする方が増えている。とくに身近なところでは回りでは若者よりもシニアの方の活動ぶりが目立つ。
まず、外食の仕事をする会社の幹部の有志たちは、毎朝、会社の周囲を掃除されている。もともと毎月定期的に全社挙げて行っていたが、あることをきっかけに今年から毎朝社長自らも箒をもってご近所の清掃に取り組まれている。
とある大手メーカーの幹部の方は、「町の犬の糞を処理する」活動に参加されているそうだ。ペットを飼う人が増えている一方、そこらじゅうに犬の糞が増えて困るという問題もあり、そういう事態を憂う気持ちからはじまったボランティアだそうだ。頭が下がる…。
昨年の新潟大震災のとき、全国からいろんなボランティアが集まったと聞く。神戸震災のときに助けてもらったからという方や、学生、活動家の方々。力仕事から話し相手まで、まさに多くの人の支え、好意により新潟の復旧は進んだ。また時間がない人は義援金という形を通して復旧に参加した。またアメリカで始まった乳癌早期発見のための普及活動「ピンクリボン」活動。女性の社会参加が進み、このストレス環境の下、乳癌発生率が高くなった。それを早期に解決するための普及活動は、今は日本でもさかんである。ご家族を乳癌で亡くされたお医者さんが発起人だと聞く。
実家の母親は、いろんなガラクタのコレクションをずっと続けている。以前はテレホンカード。今は箸袋。何のために集めているか…と聞くと、まとめて赤十字に送るのだそうだ。父親は毎朝、家の前の神社の掃除をしているそうだ。昔、「愛のひとしずく運動」ってあったけれど、今もあるのかな。
アメリカのメトロポリタン美術館やカーネギーホール、セントラルパークを支えているのは、多くのボランティアだそうだ。「いいもの、文化を遺そう」という共通した意思により、それらは成り立っている。
あと、「トイレ掃除の会」というボランティア組織もあり、各地の小学校のトイレ掃除をして、掃除の大切さを伝えているそうだ。あと、外資系の企業で、年末の派手な忘年会をやめ、施設の慰問を行ったという事例も聞いたことがある。また大手ホテルチェーンでは、1泊につき1ドルの寄付を自動的にするシステムになっており、それはユネスコに送られる。
最近では、カード会社のサービスにもポイントを集めると相当額を寄付できるという特典をもつ事例も出てきている。TSUNAMIの被害により、観光客が激減したプーケットには、どうせ旅行するならそこに行きそこで消費をしようというボランティアグループの滞在例もあるという…。
最近、一番驚いたのは、セックスにもボランティアがあるということ。そのことを書いた書籍を読んだのであるが、ちょっと衝撃的であった。それはハンディーキャップをもった方のための活動であると。確かに人が人として生きるための、性欲を解決するための活動…それもあり得る。とにかく、世界にはいろんなカタチのボランティアが存在している。

私の場合は、大したことはしていない。ただ、何かしようと思うときは、それなりのきっかけがあって…である。たとえば、何年か前の台湾地震。自分が出張から戻った翌日に起きた惨事であった。何かできることはないか…と咄嗟に思い、おつきあいのある企業にお願いし、寄付できるタオルや石鹸などを集めて現地に送ったり、関係のある企業のレジで義援金を募ったりした。今から思うと、恥ずかしい稚拙な方法であったのだが、あのときは「何とか役にたちたい」という思いだけで、必死に企業を駆けずり回って物資を集めた。結果的に、現地へ送ったタオルなどは、有効に利用された。
きっと、自分にとって身近な問題に直面したとき、自らが心を強く動かされたときに実際の行動に出るのだと思う。自分から遠い問題であれば、やはりなかなか行動を起こしづらい。人それぞれの事情や状況があるので、どんなときも同じように皆が一斉に同じことに取り組むことは無理であるし、それは強制されるべきことでもない。
テレビで新潟や東南アジアに向かうボランティアの方々を見て、自分がそこに行って何もしていないで、のほほんとテレビを見て食事をしている…ことについて後ろめたい気持ちになったことがある。しかし、毎回毎回すべての事件・事故に自分が対応できるわけでもない。やはり、結局は自分ができること、自分がしたいこと…に限られてしまうのが現実だと思う。
また、ボランティアの意味はもともと「自発的」という意味なので、自発的に行う行為であるべきで、強制的であってはならない…ただそれだけのこと。また結果や見返り、報酬などを期待するのは間違っている。ここは間違えないでいたい。「こんなにしたのに、有難うもいわれない」とか、「ボランティアをしてもらう方は慣れてくると、やってもらって当たり前と思うんだ」ということで相手を批判をしてはいけない。あくまでも、「自分の意志により、自らが行う行為」である。五木寛之さんは、よく著作の中で「ボランティアは人のためではなく、自分のため」ということを書いておられるが、賛成である。もちろん相手が喜んでくれる、感謝されることは、この上なく嬉しいが、それを目的…と思うと辛くなることもあるので、そこに目的を持たず、自分が問題意識をもって、社会の一員として参加できることに喜びを見出したい。そう、ボランティアされる立場より、する立場の方が、ある意味幸せなのであるという見方もできる。
単に収入を得るための仕事ではなく、自分がすることで相手も喜ぶ、社会もよくなる…そして自分が気持ちいい、生きててよかったと実感できる…。そんな行為、行動がよい…それで十分だろう。
小さな活動をぼちぼちしていこう。世界中が善意に満ち溢れ、助け合いの社会が再生できることを切に願っている。