旅に出るのが最大の楽しみのようである。遠くに行けばいくほど、「どんどんひとりぼっち」になっていく感じがする。
今回もパリのホテルに荷物を預け、シャンパンの故郷である、シャンパーニュ地方の「ランス」「エペルナ」という2つの町を久しぶりに訪ねた。
パリの東駅から電車に乗る。10分もすると景色は都会から田舎へと突然変わる。そして、どんどん「荒涼」という言葉がぴったりな大草原を列車が突き抜ける。しかも、季節は秋まっさかりですでに収穫を終え、畑はいずれも枯れはじめ、その色調が寂しさを醸し出す。
列車がどんどん進むにつれ、自分がどこにいるのか一瞬わからなくなる。今、ここに自分がいることを誰も知らない。もしも、ここで何か事件や事故に巻き込まれ、万一のことがあっても、果たして自分の身元は正しく、迅速に日本の家族に伝わるのだろうか……など思えてくる。
まあ、世間にはもっと凄い田舎や危険な場所に撮影やボランティアで出かける人もいるので、それに比べれば大したことはないのだろうが、ただ、都会から離れ、見知らぬ場所へ移動するということは、そんな気持ちになるものだ。

さて、その続きに考えたこと。
旅する機会が多いので、何かあったときのために、やはり日頃から遺言は残しておくべきかな。万一のことがあった後では遅いから……。ということで日頃より自分が思っていることを改めてふりかえる。こんないい加減なものが「遺言」というのかどうかもわからないが、五木寛之だっていつも著作のなかで自分の生死感を書いているし(比較にならないが……)と、そんなノリで。もしも、万一のことがあったときは……を挙げてみる。
冠婚葬祭は苦手なので、葬儀はいりません。ただ、静かに火葬してもらえればそれでよい。水上勉さんが「落葉帰土」と唱えておられたそうだが、人間命なくなれば、大地に帰る……ただそれだけのことだそうだ。土でもいいし、宙でもいい、世界とひとつになれるならそれもよし……であろう。でも実感はない。
さて、それに続いていくつか周囲にお願いがある。(まだ誰にもいってないが)1つめは大切なものと一緒に「宙」に返してほしいということ。さて、私が一番好きなものは何か……。小学生の頃、父が私に騙されて岐阜のタマコシ(今はない)で買ってくれたベートーベンのソナタ集。もちろんボロボロ。それと、スタンプのたくさん押したパスポートと飛行機搭乗券の半券。なぜかこれらは捨てきれずにずっと持っている。そして、灰はできれば、パリのセーヌ川・ニューヨークのハドソンリバー・京都の鴨川・岐阜の長良川にほんの少しづつ撒いておしまいにしてほしい。その分の飛行機代と宿泊代は残しておく。それと、もし遺影を置くならば、やはりあのピアニストモードの台湾フォトにしてほしい。いくつのバーさんで亡くなったとしても、あの1枚が自分の象徴であるから。
最後のお願いは、自分が集めたつまんないガラクタは同居人と妹・姪っ子が適当に処理してくれれば、それでよい。

とまあ、こんなことがすらすらっと頭をよぎる電車の中……。縁起でもないといわれるかもしれないが、いや、そういうことではない。今回の「どんどんひとりぼっちになっていく」瞬間を経験し、やはり残しておくのがよかろうと思った次第。
でも、この「ラストライブメッセージ」(遺言というのは湿っぽいのでやめ)は、年を経るごとに変わっていくだろうし、それもよしとしよう。

さて、こんなことを頭に置きながら……
ランスに着き、すぐさまあのレオナール藤田の礼拝堂に向かった。でも門は今回も閉じたままで中に入ることが叶わず、次回のお楽しみとなった。100年以上の昔、船に乗り、この異国に来て、洗礼を受け、素晴らしい作品を残し、亡くなった藤田氏。彼も同じく日本からパリに、パリからランスへ来たとき「どんどんひとりになっていく自分」というものを感じただろうか……。
と、勝手な想像をたくさんしながら、次に同じくランスの町にあるジャンヌダルクの像に会いに行った。大聖堂の中にあるあの像には、後ろから光が射しており、とても神々しく彼女の生き方を褒め称えているかに見えた。
「戦いきって、生を全うする」中世ヨーロッパにあんなに強い女性がいたと思うと、意志をもってすれば何事も成し遂げることができると、強く強く思えてくる。彼女も土壇場で「どんどんひとりぼっちになっていく自分……」を感じただろうか?

今回のランスへの日帰り旅では、自分の中の生死観をも旅する貴重な時間となった。
そう、今日しかないと思えばなんでもでき、また自分ひとりが基本単位と思えば何事も全力で向かうことができる。
フランスはそんな「堂々とした勇気」を自らに与えてくれる不思議な大国だ。