今年の夏、昭和の歌謡曲界を支えた、作詞家の阿久悠さんが亡くなった。
お会いしたことはないが、余りに多くの作品を残され、また私たちが子どもの頃には毎週のように、歌謡番組の審査員として出演され、お茶の間の人気者であった。年を重ねてもあまり変わらない風貌(若いときが老けていたかも?)でいつ見ても、変わらぬ阿久さんに勝手に親近感を覚えていた。
新潟でライブをしているが、9月のときにお客さんがいきなり「阿久悠メドレーやってよ〜」といわれ、瞬間焦ったが、弾き始めたら、出てくる出てくる、あの時代の名曲。歌とはメロディーとリズムと歌詞でできているが、人々はメロディーを最初に記憶して、「いい曲」と思うが、本当にいい曲だ〜と思うのは歌詞の意味を理解してからである。阿久悠さんが書いた歌詞はどれも、その曲を「すごくイイ曲」にしている。歌とはすごいなあと改めて思うのである。
メロディーを創ることはしばしば挑戦してみるが、歌詞はいまだ書いたことがない。何か映画かドラマを創っているような感じ。しかも凝縮された世界を作るのである。私はどちらかというと、メロディーが耳に入ってしまう人間であるが、作詞家の先生は、歌詞をかくとき、何も音は浮かばず、ただ歌詞になる言葉が沸いてくるのだろうか。ここは興味があるところ。
いずれにせよ、できあがった歌詞はすでに曲になっているかのように、コンパクトにまとまっている。不思議である。天才である。
たまたま阿久さんの追悼番組を見ており、共感することがあり、驚いた。
それは、阿久さん晩年の話。歌詞が重視されない曲・・ダンシングミュージックのようなものが主流になり、その風潮を阿久さんは嘆いておられた。そして一気に500の歌詞を書きはじめられたそうだ。歌詞は作家のメッセージである。この時代、この社会に対する、あるときは応援、賛歌、あるときは警鐘・・・。
それを一気に吐き出した阿久さんには、作詞家として黙っておれないギリギリの精神状態があったのだろう・・・。その500の作品の中のひとつに、「若者にもっと相手の目を見て話しをしよう」というメッセージのものがあった。
この背景には、今の若者は携帯電話、パソコン、携帯メール・・・すべて何かを介してしか、相手にモノを伝えられなくなっている。そのことに対しての警鐘の思いがあったのではといわれているが、まさにそうだろう。
ここで話しが変わるが、さる11月新潟市の学生さん相手に「プレゼンテーション力パワーアップ講座」なるものをやった。そのとき、学生たちに話したのは「コミュニケーションはまずは自分自身が道具。目も声も、手もカラダもそう。
パソコンありきじゃなく、生の自分が表現できることをがんばってやってみてほしい」ということだった。彼らの世代にとって「プレゼンテーション」とはかっこいい感動的な映像を作り、それを見せるということが優先される。場合によっては「これをご覧ください」の説明があったきり映像だけを全員がシーンとみつめている・・というケースも出てくるのだ。「プレゼンとは、自分から相手に何かを差し上げる、もらっていただくという意味のコミュニケーションだよ。だから相手に喜んでもらわなければ意味がない」という話もした。
だから、もっと自分自身を使って発信してよ。「アイコミュニケーション・アイコンタクトは重要だよ」・・・と、そんな話をずっとした。
阿久悠さんの意識の高さと同じとはいえないが、それでもこの世の中を見て同じことを感じているということをうれしく、また悲しく思った。

最後にコミュニケーションは、目も大切であるが、言葉はそれと同じぐらい大切。言葉とは、自分を伝えるすべてのツール、一番大切なツールである。
それは歌詞になったり、講演になったり、プレゼンになったり、告白になったり・・・。

今こそ、人としてのコミュニケーションを考えよう。
阿久悠さんのような歌詞がかける人間になれなくても、もっと言葉を、もっと目を・・。
生コミュニケーションがなくなると人間は人間でなくなってしまうような気がするから。