確か、中学生の頃だったか「飛んでイスタンブール」という曲が一世を風靡した。と唐突な始まりであるがイスタンブールには若い時からある種の憧れがあった。さて、昨年末ごろから、私が勝手に思いこんでいたことがあった。それは、もう「西洋」とか「東洋」とか云っている時代ではないということ。地球儀を見てもそんな境界線はないし、実際、海外に出れば出るほど、いろんな国の人に会えば会うほどそれが何なのかわからなくなってしまうことがしばしば……である。
むしろ「東」だの「西」だの「北」だの「南」という相対的な視点での議論ではなく、もっと包括的な見方とその視点での問題解決こそが本当に重要なのである……と大変偉そうに思うようになった。そうはいっても世間では、一方でこれからの時代は「上海」だの「中国」パワーだのと云っているし、他方では正義の名の下に戦争を仕掛けている国もあるし、世界をとりまく現実の環境では、相対的境界線は無くならないようである。世界の歴史がそうさせたのである。とすれば、世界を大きく二分しているこの「東洋」「西洋」という見方は一体どこを境にいうのか……ということで、その東西の基点、いいかえればアジアのゴールである「かの地」へ一度足を運んでみたいと思っていた。それがイスタンブールである。
トルコという国は高校時代に習った記憶によると、帝国時代は世界的にも大変パワフルな国家であったが、現代史の中ではあまり印象にない。しかし、帝国時代の華やかな文化は今も残されており、足を運ぶものは必ず魅了されると聞く。東西の文化が混在・交流した、あるいは東の始点、西の終点はいったいどんなところなのか……。ボーダレスを志向する以上、ボーダーを見たい余り、絶対に今年こそは足を運ぶぞ〜と固く心に決めていたのであったが、例の戦争が始まり、いかに物好きな筆者でも、戦争が終わるのを待とうとあきらめていたのである。
話はいったん昨年の秋に戻る。枯葉舞い散るパリで、国際食品展が開催された。情報収集にと足を運んだ私は、RER(パリのJR)の国際展示場駅で下車をして、そこに掲示されていたポスターをデジタルカメラで撮影しようと構えていた。すると「撮ってあげましょうか?」と英語で話しかけてきたビジネスマン。「いえ、自分を撮りたいんではなくって、ポスターを撮りたいので自分でやります」と応えると「おー、あんたはジャーナリストか?」とその人は目を輝かせていう。「いえ、マーケティングの関係です」と恥ずかしそうにいうと、「GOOD!」とかいって、名刺を差し出してきた。そこにはユーロマガジンインターナショナルのジャーナリストと書いてあった。そして少々の言葉を交わして、別れた。その駅での突然の出会いから約半年、ほとんど内容のないE-MAILをやりとりし、そして今回の訪仏時に再会することとなった。

戦争がはじまり、またSARS感染騒動があり、多くの日本人が海外渡航を中止している状況にもかかわらず、定期市場観察のための渡航である。このジャーナリストとも会うことで、西欧の食やくらしのトレンドについて聞けるという期待感があり胸ワクワクであった。戦争に反対しているフランスには危険はないと勝手に決め付けていた。
さて再会の当日。その男は(あえてそう呼ぶ)約束の時間より早く、ホテルのロビーラウンジになってきた。駅でわずか2分ぐらいしか顔を見ていないので、正直どんな顔だったかも自信がなかった。「HEY,MASAKO」と呼ばれてその男が当人であることを確認した。見ると、彼の足元にでっかいカート付きのショッピングバッグなどが……。日本ではおばあさんたちが日々の買出しに使うまさにあのバッグである。(何?この人?変な人)と内心思ってしまった。「今、フランクフルトから飛んできたので、こんな荷物で、しかも身なりもきちんとしてなくてごめんなさい……」とその人はいう。「え? 出張でしたの?なのに、わざわざ来てくれたのですか?」「そう、昨日までイラク、今朝イスタンブール、そしてフランクフルトから今、パリに戻ってきました」へ? そう、例のイラク戦争の取材に行っていたんだ!そして今、その戦地周辺からここに戻ってきて、自分の目の前に……。これまで戦争にある意味現実感をもてなかった私にとっては、衝撃的な再会となった。この2〜3週間やりとりしていたE-MAILはイラクから送信されたものもあったのだ。知らなかった。パリにいると勝手に思いこんでいた……。
疲れているジャーナリストを捕まえて取材? をするのも変な話であるが、大変貴重な話をいろいろと伺えた。まず、彼はイスタンブール出身で、現在パリを拠点としながら、ヨーロッパ発トルコ人向けの情報を発信している。これまでにシラク大統領はもちろん、ダライラマの取材もしたことがあるという。さらにかなりの秀才のようで、フランス国籍とトルコ国籍をもつ。(パスポートを2つ持つ人はこれまで会ったことがない。なんでもフランス国から寄与されたそうだ)さらに9ヶ国語話せるというのも驚きであるが(日本語・中国語などは含まれない)、びっくり!はこれだけでなく、なんとパリの音楽アカデミーでオーボエの教授もしているというのだ。そういえば、名刺には「PROF.」と「DR」のふたつの称号が印字されている。「私は2つの職業をもっています」といったがジャーナリストでありアーチストであったのだ。最初は、話があまりにも凄すぎて、日本人女性を騙したい悪いトルコ人? とも思ったが、いやいや、確かに翌日のトルコ人向けの新聞を見てみると、実名入りのイラク戦争に関する記事が2分の1ページも掲載されている。パリの5つの新聞社にデスクをもつというから、その筋ではそれなりの人なのであろう。
さらに、発明家でありいくつかの商品の特許をとったり、写真の技術もあるので大手企業コマーシャルの撮影もこなしているようだ。(フランストヨタの作品を見せてもらったが、これが感動ものである)彼はかなりの日本びいきで日本文化を愛好しているようで、所持品のほとんどが日本製であった。腕時計を見せ「SEIKO」と嬉しそうにいったときは、ああ普通の人間だと安心した。
嘘のような話が続いたが、すべて本当のこと? 少なくとも私が今回見聞したことである。
もしも、昨年、あの駅で声をかけられなかったら?
もしも、戦争がおきなかったら?
もしも、戦争を理由にパリに行かなかったら?
もしも、勇気をもってこのジャーナリストとの再会を果たさなかったら?
………いろんな「もしも」でこの出会いは、何もなかったに等しい結果になったであろう。
なんといっても、彼がイスタンブール出身ということで、今回果せなかったイスタンブール行きを代わりに演出してくれたともいえる。
パリのさびれた裏町にあるトルコ料理のレストランにも案内いただき、加えてトルコ料理の資料もどっさりいただき……なんとも不思議なイスタンブール体験となった。
その名を「オスマン」という、まさにトルコの皇帝のような代物であるが、日本とパリ、トルコを結ぶビジネスのアイデアもいただいた。願ってもない話である。そう、「飛んできたイスタンブール」に、久しぶりにセーヌ川を歩きながら笑いが止まらなかった。
もしも、このPROF&DRの話が、話半分であってもそれでもすごい。彼から学んだことは「仕事はひとつでなくてもよい。できることがあれば、複数してもよい。それが人生」「生きていることすべてが情報だ」(だから何でもコレクションしているようで、これまた不思議である)「自分はアーチストである」という自信。これがすべてを成功に導く。さらに「人は一目見ればわかる」そうだ。つきあう価値があるのかどうか、瞬間的に感覚的に察知できるのだという。
これも含めて、話半分としても、ここに「東西」の枠を超え、あらゆるボーダーを超え、自分流にたくましく生きている人間を見た! という点では、やはりイスタンブールは枠を超えた人間を生み出す何かをもっている地なのかもしれない。
長くなった。がんばって勉強して、この交流を継続、深めていこうと思う。とにかく、現実に広がるのは「もしも」を超えた世界である。しかし9ヶ国語話せる人間相手に2カ国語も満足に話せないようでは……。
真のコスモポリタンを目指してがんばって生きようじゃない! 日本人ファイト!