見直せる時期は幸せ。

生きている時間。限りがある。
よく人生を春夏秋冬に例える人もいるが、人生の場合は、冬から春とはならない。一度きりの四季ということになる。
冬とは、人生の最終章。
今の私は何の季節を生きているのだろう。残暑ぐらいだろうか?実りの秋というにはまだそこまで至っていないような・・・。
いずれにせよ、まだまだいろんなことが見直せる、改善できる。ありがたいこと。
一方、父のことを思う。
カラダの自由が効かなくなり、気力も低下し、自分から何かをするということが
もう難しい段階にきている。
昔のことを振り返り、懐かしんだりしているだろうか?父の胸中はわからない。
どんな風に冬の時間を過ごしているのだろう。
何かを見直すということは、すでに難しい。
気力体力が満ちていてこそ、見直し、やり直しができる。

悔いのない人生のために、できるときに自分の来た道を振り返り、
見直しながら、進むべき道に向かっていこう。

見直せることがあるのは、まさに生きているということ。
幸せなことだ。

有意義な人生にするために、見直しを繰り返し、微調整しながらゴールに向かう。
8月が始まった。
父がこの夏を乗り切ってくれることを、祈りつつ、自分が今できることを
やり続けよう。


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「伝えるって難しいね。」

日々、さまざまな経営者、組織で働く皆さんと、それぞれに交流させていただいている。
そんななかで、コミュニケーションの難しさが、話題になることが多い。
どうすれば、相手がその気になり、理解して、動いてくれるか。
厳しい時代こそ、一丸となって動くことが求められるが、それぞれ違う人生を生きるもの同士が、ベクトルを合わせて、長い仕事時間をともに進むには、
お互いの信頼関係が何より重要だ。
組織のリーダーは、身をもってその思いをその従業員たちに知らせることで
信頼を得ることが必要であるが、その示し方も難しい。
言葉の力と、動かす力。
これは、コミュニケーション力の積み重ねによって磨かれる。
形だけで聴く人は多い。
心から何かを得ようとして傾聴してくれる人を増やしていかねばならない。
これも、日ごろからの積み重ね。
どんな役割、肩書であっても、同じ組織を支える一員同士。
あなたがいるから今がある。
あなたのおかげで、今日がある。
と、お互いに心からそう思えれば、伝えることも難しくはない。

といいつつ、日々、コミュニケーションの難しさに直面することは多い。
でも、伝わると嬉しい、響き合うと嬉しいから、
今日もそれを目指して、ひまわりスマイルでがんばろう!

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朝カツ、朝連、朝は宝!

早朝ミーティングをよく行っている。
たとえば、京都に始発で出かけ、駅のカフェで、出社前の社長さんと
モーニングミーティング。いつの間にか、お互いにその時間を「朝カツ」と呼んでいる。口にするだけでも、元気が出そうな言葉だ。
「モーニング付けますか?」とお店のスタッフが言ってくれるが、
頼んだことはない。コーヒー一杯で、時には飲むのも忘れて、
限られた時間でてきぱきと話をする。限られた時間なので、予め頭の整理をしてくるところから、朝カツは始まる。
そのため、1時間でもかなり濃密な打ち合わせができる。
話すことで、頭を改めて整理して、出かけていかれる背中を見送りながら、
「今日もがんばって!」とエールを送る。

そして、最近は朝連も時々、実行。
親の用事などで実家に早朝に行くときに、たとえ15分でも20分でもピアノを
弾くことにする。
弾きながらわかったが、朝のピアノは、朝の珈琲に似ているところがある。
指先を動かすこと、心をこめることで、頭がシャキッ、心がすっきりしてくるのだ。
思い出せば、子供の頃、学校へ行く前にもピアノの練習をしてから行っていた。
すごいな。そんなことしていたんだ。と思い出し、やる気が湧いてくる。
朝練。これも本当に有効だ。

今の季節はとくに気温がまだ上昇しない朝が最高だ。
朝は宝。朝はいのちのはじまり。
今日も始発で。長い1日を元気に出発!
暑い朝は、とくに朝を大切にしたい。

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太陽の花を届ける朝

夏は高齢者にとってキツイ季節となる。
脱水症状になってしまうのだ。
嚥下の力が衰えることで、水分補給を自分でできなくなる・・。
体力が低下すると、さらに悪循環になる・・・。
昨年の夏までは、そんなことを心配することもなく、元気な両親がいた。
コロナの四季を越えて、1年経たない間に、母がいなくなり、
ひとり残った父。
ほとんど外出できずの温室暮らしの、家族とも会うことがない暮らしのなか、
昨年のようなパワーがなくなってしまった。

脱水症状。
あんなにジュースをせっせと届けていたのに・・・飲めないなんて・・。
今、主治医の先生や施設の皆さんにお世話になり、いろんな方法で水分がとれないか試てもらっている。

お願いだから、飲んで!お願いだから、食べて!

看護士さんと電話で話した、尊厳死のこと。
父のことで、そんな話題をしなければならなくなったとは・・・。

いかんいかん、夏を乗り越えてもらいます。

父に元気に復活してほしい。絶対に夏を乗り切ってほしい。
せめて、せめてとひまわりの大きい1輪を買ってきた。
これを届ける。心の差し入れだ。
花も水を飲んで生きている。
お父さんもひまわりのように元気に1
そんな思いが伝わってほしい。
一緒に、夏を絶対乗り切る!

ひまわりって、よく見ると人間の顔みたいで、
個性豊かだ。
この一輪が、私たちの代わりに、父を今日から見守ってくれるように。

太陽の花。ひまわりに願いを託す朝。

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今こそ、情報を見極める力。

ワクチンを接種するか、しないか。
世界中で、この意見は大きく二分されているようだ。私の周囲でも然り。
このウイルスの広がり方、不確実性から、リスクを考えて、接種しない
という選択をする人がいる。
そして、なんとアメリカでは支持する政党により、ワクチンへの賛否も真っ二つのようだ。
何かの行動を起こすとき、自分にとって信頼できる人が言ったことを信じる。
不安な時代、自分では判断できないからこそ、そのように選択をする人が多いのだと思う。正直、驚くが・・・。
また、SNSがなければ、多種多様な情報が氾濫することなく、もっとシンプルな結果になっていたかもしれない。

ワクチンを接種したくない人同士のなかでは、日々さまざまな情報が飛び交っているようだ。「〇〇という週刊誌に記事があったよ」・・といった共有もされる。へ?それを読んで、信じるの?と思うものも含まれる。
もちろん、自分が信じられる情報を選べばよい。

しかし、情報といってもいろいろある。二次情報、三次情報は確実とはいえない。
企業にも広報活動をする上で常々お伝えしているが、取材もしないで
あるいはある方向に引き寄せるために記事、客観性、学術的なデータを持たない情報は優先すべきではない。と常々思っている。
本当に知りたかったら、専門家の情報を自分でとりにいく。
また、まったく違う立場の情報もインプットしながら、幅広く情報を見聞して、より納得いく選択をする。
もちろん、誰を信頼すべきかは、人それぞれなので、人に押し付けることはしない。
自分にとって正しい、自分にとってより納得できる情報。を求めていく姿勢こそが重要だと思う。

人のうわさほど、無責任なものはない。
間接情報ではなく、自分で情報を見極める力。

情報を受け取る側の力で、世の中が変わっていく。
SNS時代はひとりひとりが責任重大なのだ。ということを、改めて心得ておきたい。
ワクチンは、自分のためだめでなく、社会にとっても、コロナを終息させるために協力すべきことだともいえる。


早く日常を取り戻すために、リスクなき道はない。

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今こそ、清貧を学ぶ。

一時、「清貧」という名がつく本が流行った時代があった。おそらく時代がその反対の流れになっており、その教訓として、この本がよく読まれたのだろう。
大量生産、大量広告、大量消費・・・は、まさにその対極にあった。
そして、今もまた、清貧について意識することが、大変重要な時期にある。
経済優先という面だけでなく、情報についても同様だ。
情報が氾濫し、何事も、むさぼるような生活は、清貧の世界とは異なる。
今、モノも情報もあふれ、正しい判断がつきづらい時代になってきていることに
気づく必要がある。

また、自分中心の生き方、モノの考え方も見直すべき時期でもある。
自分のこだわりを捨て、与えられたもの、すでにあるものや周囲の人を大切にしながら、そして謙虚に、感謝をもって生きる。
自分が取るに足らない存在である、貧しき存在であるということを知ることから
清貧の精神ははじまるようだ。

現代のオリンピックの過剰消費、無駄なことは、まったくこの清貧に反する。
儲け主義ではなく、利己主義ではなく、同じ世界で生きる人たちが、その子孫たちが末永く明日を見られるように、自分を律し、わきまえて、生きていくことが
大切だ。

モノが豊かでも、心が貧しい人は、本当に気の毒だ。
モノがなくても、心が豊かな人。そうありたい。

そろそろ、私もそちらの方へ向かっていかねば・・。
貧しいという言葉・・。よく見ると、貝を分ける書いてあることに気づく。
そう、皆で分ければいい。シェアする気持ち、行動のことだ。
貧しいとは、本来そういうことなのだ。

清貧から教えられることは、とても多く、また深い。

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「感動」について、改めて問う時間。

感動。心が動くこと。生きていく上で、私たちが、心豊かに生きるためには、
大変重要なことだ。

感動というと、多大なお金を使って、仕込みをして・・という場合もあるが、
お金をかける感動というのは、ある意味、感動されて当たり前であり、ビジネス的であり、意図され、つくられたもの。一過性である。
自分が考える、本来の感動とは、押し付けられたり、これでもかと、示されるものではなく、じんわりと心に響いたり、目に入ることで、心がきれいになるような・・そんな自分と世界との交わりである。

今回のオリンピック。多大なお金をかけて、建物を創ったり、いろいろクリエイティブらしきことをやって、そして開会式も・・。とにかくお金がかかっている。このお金があったら、貧しい国に、人に送ってほしいと思ってしまう。
見た目の立派さは、どうでもよく、素朴でシンプルが良い。
お金をかけなくても、普通に競い合うだけで、アスリートは力を発揮できるだろう。華美であることよりも、安心安全であること。時期も含め、そちらが最優先だ。選手たちが、何の不安もなく、のびのびとその力を発揮されるところで、人々は感動するはず。
もちろんこの環境下でも、感動は生まれている。兄弟で金メダルをとった選手たちのように。純粋に力を発揮する人には、理屈抜きで美しいと思える。
(今回は、感染大丈夫かなと心配してしまう自分もいるが・・)

話を戻す。
お金がかかった豪華な世界に感動するのは、もう卒業。
それよりも、日常の中に、小さな感動をみつけよう。
野に咲く花、小さな親切、きれいな歌、やさしいピアノ、美味しい一杯の珈琲、
暑いのに一生懸命生きている小さな生物たち・・・。
純粋さのなかに、小さな感動をみつけ、それをエネルギーに生きていこう。
一生懸命、まっすぐ生きる人を見て、そのさまを見て、人は一番感じる。
それがいっぱい感じられれば、心豊かに、優しくなれるだろう。

この2週間は、感動について、考える、貴重な時間かもしれない。

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知れば、変わる。

ナベツネという言葉は、これまであまりいい響きに感じなかった。
なんとなく、メディアや球団を自分の意のままに操ってきた、
ワンマン経営者というイメージ。独裁者ときいたこともあったような。
実際にお会いしたことがないため、メディアで報じられる内容によって
人はその人の像を描く。
だから、メディアの力は大きい。

もともと、報じる側の新聞記者であったナベツネさんは、いつしか
報じられる側にもなり、世間を騒がせた。
あまり詳しくはないが、野球の世界ではとくに物議をもたらした人
と報じられている。

今、95歳だそうだ。
このたび、NHKから独立された、大越健介キャスターがNHK在職時に
インタビューされた渡辺さんの番組を観て、心から感心し、そして
その人間像がわかり、これまでとイメージが一新した。
ジャーナリストらしきリアリスト。
そんな言い方をしている人がいたが、現実に真摯に向き合い、
世の中をどうしてよくしていくのか?と考え、全力で立ち向かう。

粗削りな言葉で誤解されることも多かったが、真の平和主義者で
戦争を二度と起こしてはならない。
そのためには相手が誰であろうが、行動を起こし、言葉を発した。

また、政治記者の経験から、昭和の政治家たちからの教訓を
平成の世に
いかに生かすかということについて、一肌脱いだ。

95歳の命から振り絞られる言葉は、あまりに重くてこのインタビューを
聞き逃しがないか何度も再生して確認した。
「言葉は切り取って表現されてしまうから」
この言葉はまさにそのとおりだと思った。
メディアは言葉を都合のいいように、切り取る。それを世間は受け取る。
まさに今のご時世も同じだ。また、渡辺さんもその道を歩んでこられた。

渡辺さんは、哲学者だったと知って、思わず共感を抱いた。
とくにドイツ哲学のご専門。常に現実と理念の世界を両方見据えながら
生きておられたようだ。カントの実践理性批判がバイブルだそう。
生涯、熱心な勉強家と知り、これも印象が変わった。

そして何より、一番印象的だったのは、愛妻家でおられたということ。
認知症になった奥様を献身的に介護され、2017年、見送られたとのこと。
きっと、今もお寂しいことだろうと察する一方、それでも命を振り絞って
自らの一生を現役で過ごされている。
その生きざまは、どう見ても尊敬に値する。

思わず、会いたくなる。
そんな人・・という印象に代わった。

リアリスト。この言葉が響く。
私の場合、生きる世界は小さく、知的レベルは低層であるが、
そうありたいと思う。

現実をみつめ、理念に近づける。
自分ができる方法で。
心から平和を目指す人の生きざまの、素晴らしきお手本。

どうぞ、お元気にお元気に・・・。
かなり小さくなられたお姿ではあるが、ひとりの人間として
信念に満ちた人生の先輩として、心から敬意を表したい。

知れば、変わる。
人間とは、知らないで決めつけることが多い。
自分もまだまだ。
よく知る、正しく知るということは、
自分にとって、社会にとってとても重要だ。

一辺倒にならないように。





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今こそ、世界に目を向け、平和を想う。

オリンピックは平和の祭典。というならば、この機会にこそ、今、世界は平和かということに目を向けたい。

今、心にささっているのは、
まず、香港のこと。
あんなに自由で開放的で、知的で。アジアのなかのコスモポリタンであった香港。
九龍島から香港島へわたるスターフェリー、あるいは、マカオに向かうジェットフォイルに揺れながら、世界への扉を感じた、あの香港。
その町は、今は自由を奪われ、モノ言えぬ国になっている。
これは、平和と言えるだろうか。
香港以外にも、心配が尽きぬ国や町がある。
彼らから見たら、平和の祭典は、どのように映るのだろう。

そして、ドイツ。
先週、史上類ない大洪水となり、多くの被害が出ているようだ。
メルケル首相が現地に飛び、早急な支援を地元住民に約束していた様子を
報道で知る。
「コロナで店の売り上げを奪われ、今回の大雨で店が流されてしまった。
わが人生、もう何も残っていない」
とインタビューに応えていた、洋品店の主人の悲痛な声が心にささる。

これに限らない。
コロナに感染して、家族と別れ別れになり、会えないまま亡くなる人も
毎日いる。
それどころじゃなく、いかに生きるか。で困っている人がいる。
そちらに目をもっと向ける。

平和とは、平和とは、平らに和むこと。
公平かつ、みなが笑顔で生きられる状態。と解釈する。

自分たちの使命を果たさんばかりに無理をする。
それは平和にはつながらない。

いろんな国の、いろんな情勢に目を向けて、自らが今すべきことを
する。
もちろん選手の競技が、メダルがその国に勇気をもたらすこともある
かもしれない。
でも、それは今でなくても、明日でも来年でも二年後でもいいこと。

今、世界で泣いている人がいること
をついつい、想ってしまう。

みんなが笑顔で、元気に生きられる世界について思い描く。
今そのために、自分ができることを、小さなことでいいから、
ひとつひとつ・・・。
そんな夏にしようと思う。

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ピンチはギフト。

この1年半余り、コロナ感染は、世界中に衝撃を与え続けている。
こんなにも、日々の暮らしが、仕事が、社会が、コミュニケ―ションが変わると
思わなかった。
自由に活動できない反面、ネット社会で人々は交わることを覚え、伝えることの容易さと、伝わることのむつかしさも学んだ。
当たり前のように必要と思っていた「移動」「会食」が、なくても大丈夫ということになり、これまでの「消費が美徳」の幻想から、経済活動は一体何か?と思うようになった。外に出ない分、家族との絆が深まった人もいれば、閉塞感のなか、関係が壊れ、孤独になる人も増えた。
人が動かない分、売れなくなった。人が使わない分、自然が回復した。
人間には限界がある。コロナには勝てない。ということを学び、これまでの驕りを反省する機会となった。

・・・と、書きだしたらキリがないけれど、コロナは、21世紀を生き始めた私たちに多くの問いかけを与えた。
そして、当たり前が当たり前ではないこと。に気づかされ、当たり前であったことに感謝の念を抱くようになった。
だから、コロナは少なくとも、私にとっては意味がある。

そして、このオリンピック。
なぜ?今、なぜ、無理やりに?誰のため?何のため?
疑問符だらけで、何一つ納得することがないまま、おそらくそう思われる方々が多いなか、それでも強行されるイベント。
お金と時間の無駄遣い。権力の乱用。感染拡大をさらに引き起こす狂気の祭典。
こちらも言い出したらキリがない。

しかし、もう一怒一憂せず、
俯瞰してみることにする。
決して、その中には入らない。そこでの感動はノーサンキューという気持ち。
少し離れてみつめたい。

終わったとき、何が残るだろう。

今そのことをイメージしようと思う。
この経験が、人類史上、例のない。意味のある教訓になるだろう。
残念ながら、日本にとっては、全然喜ばしいことではない。

コロナは神さまのギフト。今回のオリンピックも同じだ。
人間よ、考えよ。
ピンチとは、人間に与えられた贈り物。
と考えることにする。
だから、意味はある。と思うことにする。

真実、本質を見極めるためのツール。こうあってはならないという
教訓のギフト。

今日から、そう思うことにする。

メダルの数の多さよりも、感染者の減少を心から祈りたい。




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