社会に認められない存在として、生き、死んでいく人生とはいかなるものか。
実は、私には私が子どもの頃から精神病院に入って45年生きた叔母がいる。
そして、彼女は先日亡くなった。
今回は、私事であるが、そのことについて少し書かせていただく。
子どもの頃、事情がよくわからないまま、病院に見舞いにもよく出向き、また病院の行事、たとえば運動会など…にも参加した記憶がある。
一般社会、いわゆる健常者の社会しか見たことがない人にとっては、どう感じられるか。
私もそう何度も足を運んでいたわけではないが、その世界とはなんとも隔離された世界であった。精神を病むとは、現代社会ではある意味珍しくない。電車の中や町で、独り言をいったり、大きな声で歌を歌ったり、人目を感じず行動している人も時々見かける。最近は暴力や犯罪も多くなっている。
またそうならなくても、ビジネスマンの世界でも病んでいる人が増えている。
その病状と私の叔母はまったく違うし、時代も違い、社会の目も違っていたので比較のしようがない。
ただ、精神病患者とは家族にとって負担多き、難しい存在であるという点では同じかもしれない。
叔母は父親(私の祖父)が家の近所で交通事故に遭い、亡くなったその現場を見てからおかしくなったそうだ。少女期のその症状が、成人して再発した。そして入院となり一般社会から離れて生活することになった。
やはり人間は、「ショック」というのはその人の人生に多大な影響を与えるようだ。
決して人事ではない。
世間にいえない病気の妹をもった兄である私の父と、義姉である母は45年間、さまざまな面から彼女の入院生活を支えた。何かあれば、夫婦喧嘩の種になることもしばしばであり、その光景を見て育った。母はいろいろ父に愚痴をこぼしながらも、
子どもである私たちに「叔母さんが、うちの不幸を背負って生きてくれているんだから、おまえたちは健康であることに感謝するんだよ」と何度もいった。
そうか、そうなんだ。叔母さんのおかげで、自分たちが元気でいられるんだ。といつしか思うようになっていった。
お見舞いに行くと、叔母さんはおいしそうに差し入れのバナナやお団子をたいらげ、食べ終わると幼女のように、童謡を歌っていた。そんな不思議な光景を見ていると
「叔母さんはもしかして、幸せなのかな~」と思うこともあった。
5月末とある日、出張先から親にたまたま電話したところ、「あのー、電話借りて悪いけど、叔母さん先週亡くなったし。もう全部終わったから心配せんでいいよ」と母親。
え? その一言に耳を疑った。状況が状況だけに、本人の兄弟だけでの密葬にしたとのこと。
すぐ父親の携帯に電話した。「そうやな~。自分よりあいつが長生きしたらどうしようと心配やったけど、こうやってなくなってみると、寂しいもんやな~」とつぶやいた。
22歳以降45年間、病院暮らしの人生をずっと見守ってきた父としてはそりゃそうであろう。かわいい妹の死である。
それから、何日か後、実家へ戻る用事があった。
そこに叔母の遺骨が祭壇に置かれていた。そこに小さな写真が添えられており、よく見ると発病する前の若き日の写真、発病後の写真。昔の写真は、母がアルバムからみつけてきたという。やっぱり不思議なもので、その写真はどことなく面影が他人でないような気がする。
遺骨を前に父は電話で話したことと同じことをいい、また「天国のお父さんやお母さんに会えたかな~」としみじみ…。気になるのであろう。またそれとは別に母は義妹のことを「本当にかわいそうやけど、この人は死んでよかったんやで。」といい、「彼女が全部不幸をしょってくれたこと、忘れたらあかんよ」とまた言った。
狂気とは何か。人間誰しもその因子はもっているかもしれない。その狂気がときとして天才として花を開かせることもある。しかし、なかなか狂気は人の迷惑になることもあり、日常には溶け込めないものである。
60代後半まで生きた叔母。恋はしたことがあっただろうか?結婚も出産もなく、人生の夏の時代からは病院暮らしで動けない、見えない人になった。人生の宿命とは何か?運命とは?答えはわからない。
彼女ができなかったことを、元気で生きている私たちはしていかねばならない。
彼女の若き日の写真を見て、そっとそう思った。
和子さん、おじいさんとおばあさんには会えましたか?会えましたよね。
ようがんばって生きたなと褒められましたか。
空の上から、父や母を見てみんなで褒めてやってくださいね。
あなたの兄・義姉である私の父母は素晴らしい人たちです。
生きている私たちは、本気で生きないと申し訳ないですね。
あなたがしたかったこと、やりたかったこと。その思いに届くかどうかわかりませんが、空を見上げるたびに、そのことを思い起こすようにします。
永年、お疲れ様でした…。これからも見守ってくださいね。(合掌)
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