コミュニケーション2017年振り返り。

年末になり、恒例として、今年を総括するニュースや記事が増えている。
一文字では「北」という文字が選ばれていたようであるが、人それぞれ
感じるところは違うのだと思う。
どうも、一文字では言えないなと思いつつ、自分なりに自分が感じた
世界の一年を見ると・・・いろんな思いが入り混じり、とても一言、
一文字ではいえない。
言葉とは、簡単に表現すればするほど、受け取る意味の幅が広くて、
正しい意味が伝わりづらい点もある。
だから、伝わらない。でも、発信した側は伝えたつもりでいる、いられる。
そして、よく考えようとする人にとってこそ、簡単な言葉で言われると、
その真意が理解できない・・・ということも多い1年であったように感じる。

簡単でインパクトのある言葉、流行りもののようなフレーズは
一見、受け入れやすい。
しかし、その真意や深い意味はわからない、もしかしたら、それすら
ないのかも・・・。そんな言葉の使い方が目立つ、今年1年であったように
思う。

最近、政治の世界の言葉も、ビジネスのキャンペーン用語のように、
キャッチ・イメージ化が進んでいる。
わかりやすさは大切であるが、勢いやイメージ、インパクトだけでは
わからない。
大きいことだけが、いい!ではないのだ。

言葉を丁寧に紡ぐ、丁寧に重ねる。
そして送りっぱなしにしない、本来のコミュニケーションを
大切にする・・。
その必要性を強く考えさせられた、2017年。
この反省を、課題を次年に生かしていかねば。

消費ばかりに浮かれている世の中を見ながら、
平和ボケが、平和バカにならないようにと、願いつつ・・。

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毎日、背伸びしよう。

久しぶりに、健診に出かけた。
本当はあまり得意ではない、好きではないが、
周囲からの要請でしぶしぶ・・。

そこで驚いたことがあった。

なんと、身長が減っていた。
これまで、わが人生の健診、測定で、
身長が減る、縮むということは想像もしなかった。

減るなら、体重にしてほしい。という感じだ。
体重を計るときは、
「いやー、いっぱい着込んでいますので、その分
引いてくださいね」
といいつつ、
一方、身長を図るときは背伸びはしないが、
なるべく高くなるように姿勢をよくするように意識するが、
最近は同時に測定する機械なので、どうも
注意が散漫になりがちだ。

結果を知って、びっくりして、担当者に
「何かの間違いということもありますか?
人って、身長減ることあるんですか?」
と、もう一度 計ってくれ~といわんばかりの
質問に担当者も答えづらそう。
姿勢が悪かったり、やはり年を重ねると
そんなこともあるそうだ。

これではいかん!
急に姿勢を意識しはじめた。
どんなときも、上を向いて歩こう。

先日、小さいことについての投稿をした
ばかりであるが、小さいのに、さらに
縮むのはやはり困ること・・。
この点に気づけただけでも、
健診にいった甲斐があった。
それにしても、ショックであった。

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ちょっとの我慢と不自由で、健康と自由のありがたみ。

年末の健康診断。正直、この健診は苦手なことのひとつだ。もちろんそれが好きという人は
いないだろうが、しぶしぶ申込み。
何が嫌かの理由はいろいろあるが、前夜や当日朝の食事制限も嫌な理由のひとつだ。

とはいえ、前夜は忘れており、軽く飲酒してしまったが、まあよく寝たし、まあ良いだろう
と自分に甘い。
当日の朝が肝心だ。朝は水かお茶のみ。とのこと。ここは守らねば。
・・・と、
こんなささやかなことが苦痛。朝が早いため、検査までの数時間その状態でいるのが不自由だと感じる。
コーヒーを飲みたければ飲み放題、フルーツであろうか、なんであろうが欲しいものを
欲しいだけ飲み食いできる。この贅沢、この自由のありがたみを不自由な瞬間に感じる。
あ、いけないんだった・・・と開けた冷蔵庫のドアを閉じる。

以前、断食のリサーチに行った際、3日間の体験をした。
これもなかなかつらかった。
1日何回か自然に、好きなものを食べる・・・という習慣を制し、
とにかくお茶・水だけで過ごす・・。この時間は修行のようであった。
が、これは貴重な経験で、得たことは多かった。
ダイエットにも良かったし、収穫や味覚など食に関する
感覚が研ぎ澄まされたことも発見・収穫であった。

人間、ときには不自由になることが大切だ。
そうすることで得ることは多い。
自由のありがたみ、ひいては健康でいられることのありがたみ
を実感することができる。
そのための、多少の不自由は我慢しなければならない。
そう、現代人は我慢ができなくなってきているかもしれない。
だからこそ、この検査はその意味でも大切な経験を与えてくれているのかもしれない。

水やお茶しか飲んでいけない・・・と言われると、そのとき味わう白湯やお茶の味が
格別に感じられる。普段はなんとも思っていないのに・・。
そして、検査後に飲むコーヒーは格別だ。
自由への解放を勝ち得た心境にも似て・・。
と言うと大げさであるが、
ときに、不自由な経験をすることで、いかに恵まれているかを知り、周囲への感謝が
生まれることは良いことだ。

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「りんご」は何も言わないけれど。

美空ひばりの歌で「りんごの歌」という名曲があった。
小学生の頃、カセットテープでよく聞かされたし、好きで覚えていた。
あの歌を聴きながら、「りんごは何にも言わないけれど・・・」
という歌詞がやけに頭に残っていた。擬人化された歌詞というのは、
何故か覚えてしまうものだ。

りんご・・・。大人になってから、時々箱入りでいただくことがある。
信州の、山形の、青森の・・・。
そういえば、先日は山口もりんごの生産地であることを知り、
驚いていた。日本の各地には、その地域の自然に合わせ、
多種多様な実りがもたらされる。

りんごは、どこか控えめな優しさという印象。
そのみずみずしさと甘ずっぱさのせいか、
イチゴやスイカのように飛びつかれるスター性は
ないかもしれないが、国民的フルーツのひとつ。
そう、大人になってから、どんどん好きになってきた果物だ。
ある人からは、皮ごと食べてくださいね。と教えられた。
確かに皮ごとの方が、きれいで、栄養もあるようだ。

この年末、福島からりんごが1箱届いた。初めてだ。
中に放射性物質簡易検査報告書が入っていた。
この書類が同封された食物を見たのは、実は初めてだ。
ああ。これのことだ。農家さんも大変だなとつくづく・・。
この書類があっても、なくても、私は福島のりんごを
なんの迷いもなく、美味しくいただく。

送ってくださった方は福島出身の方で、
ご自身のふるさとを応援されているだろうし、
自分の故郷のモノを贈りたいという気持ちもよくわかる。

箱の中のその書類をはずして、りんごたちを眺める。
「りんごは何にも言わないけれど・・・」
あの歌がよみがえった。

りんごたちは、どんな気持ちで世間を見続けてきただろう。
りんごもえらいし、農家さんもえらい!
がんばってほしい。
世間が忘れそうになっても、地元の方たちは
ずっとずっと戦っておられるのだ。
りんごは何も言わないけれど、じっと見ている・・。

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頭と心の大掃除も忘れずに。

今年もあと1週間だ。
仕事納め、大掃除・・・そして、帰省に旅行・・と
バタバタと過ごすことが当たり前のような、年の瀬の暮らし。
ではあるが、おかげさまで、今年は大晦日も、三が日も
関係なく、ずっと平常モードでの年越しになりそう
なので、違う年の送り方を考えてみたい。

そう、頭と心の掃除だ。
この1年間、自分は何を思い、どう進んでいきたのか。
この軌跡を振り返り、得たもの、失ったもの、学んだこと
気づいたこと、良かったこと、失敗したこと・・・
いろんなことを整理したい。
もしかしたら、埃のかかった大切な経験もあるかもしれない。
動きすぎて、すっかり忘れているものもあるかもしれない。
いろんな自分の1年の経験を、

できれば掃除機で一気に吸い取るのではなく、今年の
経験をひとつひとつ手帳を見ながら、振り返り
きれいに拭いたり、埃を払って、
記憶の引き出しに入れていきたい。
残しておきたいものだけ入れていく。
不要なものは、感謝してお別れ。

そんなことは、これまで考えたこともなかったが、
バタバタ過ごすお祭り気分のお正月ではなく、
静かに普段通りに過ごすことで、より年を重ねることを
実感できるような気もする。

すっきりした気持ちで 次へ進むために・・。
そう、ドタバタで過ごすだけが年末ではない。
静かに・・・も、時にはいいもんだ。

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小さきもののアイデンティティ

スカイプの開発に携わったのは、バルト三国のエストニアの
青年事業家であることを知った。彼へのテレビインタビューでなぜ、
そのような発想が生まれたのかについて語っていたが、自分たちが
小さい国の出身者であることを挙げていたのが大変印象的であった。

大きな国になると、いろんな手続きが煩雑で、また通例に従わないといけない
ことが多いが、小さい国ではいろんなことがすぐできる。どうしたらそんな
ことができる?と自由に発想し、やってしまうことができる。
だから、いろんなことがしやすいとのこと。

かつて、ロシアの管理下にあったこれらの国では、今、自力で生きていくために
独自の方法で、自らの強みを生かしていかねばならない。

またこの小さき国の人々が、母国語の音楽を応じて、
アイデンティティを守ろうとしていることにも共感を覚えた。
小さいながらの連帯感を、先人たちがここに住み、話してきた母国語を
歌を通じて、みんなで受け継ごう、守ろうとしていることにも感動を
覚える。

私の場合。
子供の頃、周囲の子らに身長をどんどん抜かれて、自分は結果小さいまま
大人になってきた。
結果、小さくてトクをしてきたと思っている。
小さい方が愛嬌がある、小さい方が親しんでもらいやすい?
何事も、大きいことがいいとは限らず。
「大きいことはいいことだ」・・・というコマーシャルソングも
あったが、あれは、高度掲載成長を目指していた時代の産物かもしれない。
とにかく、大きい方が価値があるのでもなく、小さくても
ひとりひとりの人間の価値は同じだということ。

今だに経済の成長を信じ、モノの大きさ、数の多さに価値を持ちたがる
日本人も、そろそろ、自らの小ささを意識し直す方が良い。
今や経済大国になっているが、大国と思っているからの勘違いや
だからこそ忘れてしまったこと、失くしたものが
あるように思う。
小ささとは、小回りが利くということ。小ささとはもしかしたら、
配慮ややさしさにも通じることかもしれない。

小さいながらも、自立心をもって、自分たちらしく生きる。

バルトのみなさんはそれを実践している。

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ピアノに魂あり。

広島のピアノ調律師が、被ばくしたピアノの修理、調律を20年以上続けて
おられることを知った。
そのピアノは、このたびオスロでの平和コンサートでもステージに立ち、
アメリカの著名アーチストによって演奏され、その存在を改めて世界中に
アピールすることとなった。
調律師の方いわく、
「ピアノも被ばくしたわけで、ピアノも核廃絶を願っているに
違いない・・・」
この言葉が心に強くささった。
被爆者の高齢化が心配される昨今、人の命以上に、長生きできるピアノ。
もちろん修理や調律といった人の手がなければ、ピアノも生きられないが。
でも、ちゃんと調律すれば、何百年も生き続けることができる。

この被ばくピアノの存在。
ピアノは弾いている人の魂を吸収しながら、長く生き永らえるのだ
ということを改めて思うと、
楽器は単なるモノではなく、魂ある、いのちある存在だと
思えてくる。

改めて「調律師」という、ピアノへの命を吹き込む、生命を復活させる
素晴らしいお仕事をされている職人さんに心から敬意を表したい。
今回、一度、広島まで訪ねていきたいと思った。

人がかかわる道具には、命が宿る。

ふと、9月に長崎のそとめで演奏させていただいた
150年前フランスからやってきたド・ロさまの
オルガンを思い出した。
こちらには、長崎の人々の信仰の歴史が刻まれている。

ピアノに魂が宿り、時代を超えてメッセージを伝え続ける。
素晴らしいことだ。
その一端に関われる生き方を目指したい。

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ホワイトクリスマスと富士山。

ジングルベルの音色が鳴り響くと楽しい気持ちになる反面、
哀しみがよみがえる季節。
12月23日。
温かく応援していただいたあの方が、富士山で滑落、そして
帰らぬ人になって、2年が経つ。

上越の初ライブ後まもない、衝撃の事故。
最後に残されたメッセージが
「上越を宜しくお願いいたします」
みんなのために、優しくスマートに、突き進み続けた、
かっこいい、社員が自慢する社長さんであった。

この日が来ると、彼のことを思い出す。
そして富士山を見るたび、その人を思い出す。
写真は22日午後の新幹線車内から。
2年前、今日はもうあそこに登っていたのかな、
と思い出し、
最期に会ったライブの翌日に
「山が好きですから」
といただいたラストメッセージを今年も思い出す。

毎日が記念日。
生まれた日は喜び、亡くなった日は哀しみ。
毎日、どこかでそれが繰り返される。
世界は、歴史はそれの連続で成り立っている。

今も忘れられずに、今年も元社長室のデスクに・・と
白と薄紫のシクラメンを贈る。
哀悼のホワイトクリスマス。

天国から見てくださっているだろうか。
富士山から天国へ行った方を思う23日。

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今年と来年の間に思うこと

今年いっぱい、ぎりぎりまで今年の課題を果たそうと思っている。
が、実はその課題には、まだ取り掛かれていない。
これからやろうというのだから、自分ながら大丈夫?と思うが
まだ一週間以上あるから、大丈夫だと勝手に思っている。
なんとなく浮足立つこの季節ではあるが、
年末という特別な期間があるのではなく、最後の1日まで今年であり、
その翌日にも人生は続いていくので、
歩みを止めない方が良い。と思っているだけだ。
歩みを止めると、再び動き出すのがつらかったりもする。
だから、できる限り同じペースで行きたい。
むしろ、世間が止まるときこそ、静かにゆっくりできることも多い。
この贅沢な時間を大切にせねばと思う。

といいつつ、頭の中では、来年のことも同時に考える。
来年のテーマは、もう決めた。
グラン・ルー20周年になる。ある人が「成人ですね」と
言ってくれた。
二十歳になったら、あれをしよう。これもできる・・なんて
昔そんなことも言われたが、社会人・仕事人としての二十歳は
責任を果たす段階であると考える。
だから、
それにふさわしい、精一杯の充実した1年にしたいと思っている。

今から取り組む
テーマだけでなく、ストーリーも描いておこう。
このために、これをするために、こうするからああなって、
ああなった後は、こうして・・・。そして1年を結ぶ。
目標は、そのストーリーどおりになるように、進むことだ。
ワクワクしながら、未知の世界を切り開き、社会に役立つ20歳に
なりたいと思う。
と思いつつ、まだ9日もある2017年をしっかり生き抜かねば。

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生きた時間と経験と、涙と笑い。

年を取ると、涙もろくなるというが、本当にそうだと
思うようになった。
最近は、父親などを見ていてとくにそう感じる。
父が若かりし日、泣き顔など見たことはなかったが
最近は、昔より感情豊かになったのか、感極まることが
多いのか、遠慮がなくなったのか、時折涙を見せる。

赤ちゃんが泣くのは、言葉にならない感情や要望を鳴き声で
表現しているのだと思うが、
成長し、大人になるにつれ、泣くという行為は
過去の経験、時間が思い起こされて・・というケースが
多いことに気づかされる。

長い時間生きてきて、さまざまな経験をする。
その記憶が人間の脳に蓄積されていく。
あるとき、その部分を触発するモノやコト(言葉・音・映像なども含めた媒介)
によって、蓄積された記憶がよみがえり、その媒介と一体になり
涙腺に届く・・・のではないか?
これはあくまでも、私の勝手な想像であるが。

音楽や映画、あるいはインタビューなどを見聞きして、感動して
思わず泣いてしまうのは、自分の中にある記憶とその媒介物が
クロスするのだと思う。

たとえば、先日、35年ぶりのピアノの先生との再会。先生が
演奏するショパンの曲にずっと涙して、鼻をすすらないように
気を付けるのが、大変であった。
ショパンを聴いてと泣くいうことは、これまであまりない。
今回は音に自分の青春時代が重なったのだ。
先生が弾くショパンの音色が媒介となって、自分の過去から
今日までのことがあれこれ蘇ったのだ。

人間が泣いたり、笑ったりするには、過去の経験が大前提だと
思う。経験がなければ面白いとか悲しいとか感じることが
できない。経験があるから、人生に厚みができ、経験があることで
いろんな感情をもつことができるのだ。
日頃抑制されているその感情は、音楽やアートなどの媒介により
解放されたときに、人は泣いたり、笑ったりする。

そう、経験の蓄積があってこそ感情も豊かになる。
経験は人間を豊かにするのだ。

たくさん経験して、泣いて笑って心を浄化する。
その繰り返しで、人生はどんどん純化されていく・・と
いいなと思う。

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