ブランド力は経営力

コロナの影響で、さまざまな産業に大きな影響が出ており、日々世に出る情報にドキドキする。
どんな有名なブランドをもつ、企業であっても、コロナでお客さんが来なければ、お店が営業できなければ、どんなにいい商品であっても、売ることができない。
あるファッションブランドの売り場の店長の話をきいた。
私も長年愛用している、ブランドのひとつである。
海外にもファンが多く、今から思えば、あの夢のようなインバウンド全盛期には、毎日限定販売をする商品があるほどに、売れて売れて・・の勢いであった。
しかし、今年に入ってからその上得意様たちの来店が減り、とくに日本に入国できなくなって、そのブランドの売り上げはぱったりストップ。
おそらくインバウンドによる急激な売り上げ減少にとどまらず、国内需要もこのコロナで厳しい状況。しかし、そのブランドは、アジア客に根強い人気があるため、現在でも在日のお客さんが大量に購入し、中国の友人たちに送っているとのこと・・。だから、まだ売り上げはいい・・との話。
送ってもらってまで欲しいという中国人のあくなき消費欲にはある意味、驚きもあるが、それでそのブランドが生きられるならば、藁をもすがる思いかもしれない。

しかし、それに頼っていても、その効果は限定的だ。この状況が続くと、最終的には経営の危機になる。
企業経営が不調になると、ブランド力も急落することになる。
いち早く、投資家や金融機関の力で、なんとか事業を維持できれば良いがそのときには、かなりの事業の絞り込みも求められる・・・。まさか、そんなことがあるとはだれも予想していなかっただろう。ましてや、今年はインバウンドの需要増でさらなる好業績を計画していただろう・・・。

すべてはコロナ。しかし、そんな調子のいい状態が永遠に続くわけではない。
このことを教えてくれたのも、このコロナだ。

今、この厳しい時代に、生き残るブランドについて、しっかり注視していこうと思っている。そして、

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コミュニケーション ディスタンスも!

最近、コロナを通じて、いろんなことを考える。
人間という生き物、人間同士のかかわり、いわゆる人間関係も含めてである。
まず、このコロナが人間に教えたことは、「あんまり近づくと危ないぞ!」
ということだ。
だから、マスクをして、距離をあけて、関わり合っている。
カラダが近づくと、危険なのだ。2メートルの距離。ソーシャルディスタンス。
言葉は定着、行動もまあまあ、定着か。

では、コミュニケーションの世界では?

最近はSNSの発達により、知らない人とでもいきなり、急接近することが可能となった。また匿名でも、コミュニケーションすることができる容易さがある。
世界を広げる、誰かとつながるという点でのメリットもある。
一方、その反面、近くなりすぎてしまい、距離感がわからなくなることも
あるのかもしれない。犯罪を生むことも少なくない。

誰にモノを言っていいのか、誰に言っても良いことなのか?
相手もわからないから、もちろんその距離感もわからない。
本来は、使う目的、対象によって、手法も異なるはずであるが、何か新しい手法が出れば、それにのっかる、とびつく。そんな風潮が続いている。
コミュニケーション面での距離感。この大切さを最近、痛切に感じる。

コロナとSNSも密接だ。
もともとあった人間関係とか社会のありようをつくるコミュニケーション自体が変わってきている。

ココロもカラダも含め、
今一度、自分が自分らしく健康で安心して生きていくために、ちょうどいい関係、いい距離感についても、考えたい。

いずれにせよ、近づぎすぎないこと。が安全かも?

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振り回される時も、幸せのうち。

朝早く、施設の母からメールが届く。
自宅で生活しているときは、毎朝6時にメールを送り続けてきたが、
施設に入ってからは、安否確認も不要と思い、その習慣は卒業。
にも拘わらず、のメールとは、緊急連絡かも?
体調が悪いようだ。すぐ電話をすると、休日にも関わらず、かかりつけ医の先生に電話して、救急車を呼んで・・とか意味不明の言葉を繰り返し、パニック状態になっている。「じゃ、すぐ行くわ。」と言っても、すぐには出られず「9時までに行く」と余裕をもっていうと、「そんな時間まで待てない。もうだめだ~」
これはやばい。急いで、仕事の手を止め、(こういうとき自営業はありがたい)
すぐ支度をして、出かける。駅に向かって急ぎ足で少し歩き始めたら、「あ、もう大丈夫。施設の人に世話してもらった」と電話がかかる。もう~~~。最初から施設の人に言えばいいのに~。こちらの血圧があがりそうになる。「いい、どっちにしても行くわ」
電車を乗り継ぎ8時半ごろ、現地に到着。母は施設の食堂で、少し余裕をもって
小さくなって座っていた。「ごめん、悪かった。本当にお腹いたかったんで・・」それから、母と二人で、久しぶりにいろいろ話した。
最近、振り回されていることが多く、それについて思っていることをしっかり話す。珍しく母は私の言うことを素直に聞き、何度も詫びたり、御礼を言っていた。

このところ、住環境が急に変わったこともあり、母の思いつきに振り回される
周囲。とくに私や妹には直撃だ。
これは何かの練習、経験だ。
経験を重ねて、理解も深まり、きっともっと楽に過ごすことができるようになる。

振り回されることは、一生だとさすがに叶わないが、今のうちだけならば、
まあ、仕方ない。聞けるうち、聴けることは聞けば良い。
悔いない人生には、ほんの一コマ、そんなことも必要だ。

振り回してくれる人がいるだけ、幸せ。と、そんな見方もしてみる。

介護とは、何から何までを指していうのかわからないが、おそらく自分だけを見ていた生活と全く違って、自由が利かなくなってきた弱き立場の人に寄り添うこと全般を指すのだと思う。手を携えて見守る・・。実際はきれいごとでは済まず
疲れるが、逃げるは一生の悔い。なかなかの修行。まだまだ続きそう。少し肩の力を抜いて、適度に適当に。少しでも楽しみや喜びをみつけられればいい。

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今行ける、私のNY。

新型コロナでの世界の惨状、それに対する人々の努力、奮闘をさまざまなメディアで見ることができる時代。
ペストが流行ったときは、他の町で、国で何がどうなっているかなど知ることは
難しかった。
今は、カンタンに世界の情報が入手できる。よくもわるくも・・ではあるが。

よい点は、知りたいこと、知りたい町のことがわかるという点。
たまたまNYのコロナ感染の様子を編集したドキュメンタリーを見た。
偶然、つい最近、実家のピアノの上にみつけた、約30年前、初めてNYを訪問したときにグランドセントラル駅前で、同行者に撮ってもらった1枚の写真のことが重なった。
当時は珍しかった海外出張で初めてNYを訪ねることができ、私の世界観は一変。それから世界に出ることが大好きになり、NYはとくに、自分のモチベーションを高め続ける、最高の刺激剤となった。
何十回も通った。朝から夜まで足の裏が熱くなるほど歩き回った。いろんなストリートを歩き、いろんなところに泊まり、いろんなところで働く人々に出会い・・・。人種はさまざまだ。「どこから来たの?」これが会話のはじまりだ。今でもタクシードライバーとの会話から、ホテルマンとのふれあいから、デパートの販売員の接客から、現地で知り合った日本人との交流から・・さまざまなコミュニケーションの経験をくっきり思い出す。
そして、同時多発テロ。当時のNYのことも今になっても、つい昨日のように思い出す。
そして、今回のパンデミック。
医療の崩壊が叫ばれた。人種差別がこの国の感染を大きくした。NYは州知事や知事ががんばって、医療関係者の努力で、市民の尽力で、なんとか経済活動を取り戻し始めた。
いつ、NYに行けるだろう。毎年あの町に足を踏み入れ、さまざまな情報を得ること、そして創作や表現のヒントになってきたミュージカルやコンサートに行く・・・そんな日がいつ?あの大喝采はまた聞くことができるのか?
ミュージカルもコンサートも、観客があって作品が完成する。ソーシャルディスタンスを考えると、感動も別ものになる。
あの熱狂は、戻ってくるのだろうか?と、カーネギーホールの客席を思い出す。

ふと、長年お世話になってきた航空会社の未来も心配になり、そこで出会った人たちのことも思い出し、胸がいっぱいになる。成人してからの私はNYに育ててもらった。なのに、今は14時間ほどで行けるあの町に向かうには壁だらけだ。

そんな思いのなか、今自分ができること。

ささやかな寄付である。参加である。
ということで、以前長年、会員になっていたNYの美術館のサイトに久しぶりにアクセス。再び会員になり、ささやかな寄付と応援。
今年、この美術館150周年だそうで、なんと、こんなアニバーサリーイヤーになるとは・・。

このおかげで、この美術館からはこれまで以上にさまざまな情報が届くだろう。
また、NY TIMESもいつもデスクトップ上にすぐ見えるようにしておく。
練習に通ったスタジオからのメッセージは必ず目を通し、自分がそこにいるかのように想像を楽しむ・・・。カレンダーはもちろんNYの絵柄入りで。
ブロードウェイの近くで買ったマグカップで毎朝コーヒーをいただく。
などなど、今、私の目と手が届くNYをゲットする。

実際にはしばらくいけないだろう。
でも、いつか行ける。いつか30年前に初めて行ったときのように
感動しながら、アフターコロナのNYを歩ける日が必ずやってくる。
そう、信じて、今は私の掌中のマンハッタンを楽しむとする。

世界でがんばる医療関係者の皆さまに、心から感謝と敬意を込めて・・。

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拍手をきかせたい・・

京都出身の知人の作家。ラジオドラマや劇作を創る女流作家。
こちらに彼女の思いが書かれている。
https://blog.goo.ne.jp/blets-kyoku

コロナ感染拡大直後、いったいどうしたもんか?と言い合いながら
エールを送っていた。
そして、このたび、このコロナ禍での人々のさまざまな心象をモチーフに、
ひとりの女性の独白を中心に展開する、20分の朗読劇を書きあげ、
それをネットで初の生配信に挑戦。
前日に案内をいただき、可能な範囲でPRの協力。都内では出かけない人も
多いであろう四連休の初日であり、もしかしたら見てくれる人もいれば・・。

1日4回の生配信。
しかも、無料。大丈夫かな。そっちも気になる。
自分たちは作家である、俳優であるという誇りこそが、この行動を生み出したと思う。
東京の劇場で開催であれば、駆けつけることができなかったが、ネットであったが故に京都の仲間や新潟の知人にも声をかけ、自分も時間を合わせて、名古屋から視聴することができた。遠くからありがとう!と感謝のメッセージが入った。

これまで何度か共演してきただけに、今置かれている状況の作り手や演じ手の思いが、セリフひと言ひと言から、朗読する表情の変化からじわりと滲んできて、気が付けば涙が静かにあふれ、パソコンのキーボードにぽたぽたとおちた。
えらいね、ちゃんと表現している。ちゃんと作家を、役者を貫いている。
少しでも、この困難な時期を生きる人に元気や勇気を与え、寄り添いたいという思いがあふれていた。そんなことに感動した。

やっぱり表現しなくちゃダメ。表現したい。アーチストとはどんな時でも、そういう使命感にかきたてられ、存在することができる。それは経済とは別の次元で・・。単に有名になりたいとかお金を設けたいという欲望とは違う。
改めて敬意と共感が生まれてきた。

20分の朗読劇。すぐ終わる。自宅で見るには、ちょうどよい長さなのかもしれない。
役者が立ち上がって、頭を下げたとき、パソコンの前で拍手をした。
聞こえてくれ~と思いながら・・・。

やりたいこと、すべきことに対し、適した手法があれば、試してみる。それは必要なこと。すべきこと。

でも、やはり、本当は劇場で、同じ空間のなかで、演じたいのだと改めて思う。
今回のウイルスは、人間の一番大切なコミュニケーションというものを
根底から変える、恐ろしい存在。

それでも、生きる。それでもあきらめず自分らしく強く生きる。

今回の朗読劇から感じたことは、そんなこと。
おかげで、今せねばならないことが、私の中にも、新たに湧いてきた。

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荷物を下ろしながら進む。

人生のお荷物は、はっきりいって困りものだ。
まずは、自分が誰かのお荷物にならないように気をつけなければならない。
荷物とは、誰かにもってもらわないと動けないもの。
自分から動くことはできないもの。
もちろん、意味がある、役に立つモノもあるが、年を重ねるにつれ、
本当に必要なものは選び、絞っていくべきと思う。
最後、亡くなったときに、何もなしで、できれば自分のカラダ自体も
どこかに寄付をしたり、実験に使ってもらうぐらい、何もこだわらず
フェイドアウトしていくのが、私の思う、美しい終わり方だ。

最後まで荷物満載の人生は、他の人に迷惑をかける。
今、そんなことを考えながら、人生に一番大切なことは、
荷物が少ないこと。むしろ、心のなかに、いっぱいいい思い出を
残しておくことが、いい終わり方だと思うようになってきた。

荷物はほとんど、ゴミになる。
自分にとってお宝であっても、人から見ればゴミ。
そして、何を大事にしてきたか・・で多くのものは捨てられる。

荷物がいっぱいだと、背負うことに必死になる。
そろそろ、荷物を少なくして、身軽に生きたい。

と、最近、思うことのひとつである・・・。

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夏のコロナお見舞いに マーサのアマビエ登場?!

アマビエという言葉をお聞きになったことはあるだろうか?
おそらく、コロナ感染がここまで広がらなかったら、知られることがない
言葉、存在。
アマビエとは、 ネット検索(おもにwikipedia他)によると、江戸後期に制作された瓦版に類する印刷物に書かれている絵のことであり、その説明文によると肥後の国の海に現れた妖怪で、長年の疫病を予言し、その厄除けに自分の姿の映し絵を人々に見せると、その疫病が沈静するとのいい伝えを遺したといわれる。
(その妖怪アマビエを描いた瓦版は現在、京都大学が所蔵しているようである)
今回、その疫病除けの予言をした妖怪になぞらえて、コロナ禍のなか、アマビエの図柄入りの商品が各地で話題を呼んでいる。先日は岐阜のモスバーガーのトイレ店内にも、アマビエの切り絵が飾ってあり、「コロナが早く終息するように」と書いてあったのが記憶に新しい。
そして、このたび京都の仲間の会社が、このアマビエを入れた抗菌作用もあるらしい、香る金(まさに香金)の厄除けカードとして、画像のようなアマビエカードを制作し、関係者に配布をはじめた。まずは社員からということで、「みんなでコロナを乗り越えましょう。」という一種のお守りである。
社員から家族へ、関係者へ・・とこのアマビエカードを、人から人へと思いを込めて配っている。そして京都のお寺の匂いがほんのり漂ってくる、ありがたい1枚だ。
さて、そのアマビエは、その会社の女性スタッフの手によるものであるが、なんとこの4つのアマビエのなかに、私がモデルのものもあるとのこと。
(おそらく、すぐわかると思うが・・)
マーサのアマビエが、厄除け、お守りになるならば・・。これはいい!
と、いろんなアイデア、工夫でみんな知恵を使い、元気にこのコロナの夏を乗り越えようとしている。
知恵を絞り、元気をシェアしたい2020年。
このカードをご希望の方は、ご一報を。
友禅印刷についてはこちら。
https://www.taihei.co.jp/service/service06

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5W1Hというスケールをもつ。

自分はいつ生まれ、いつまで生きるのか?
自分はどこに生まれ、どこへいくのか?
自分は生きる間、自分は何をする?
自分は誰のために生きるのか?
自分は何のために生きるのか?
自分はなぜ、生きるのか?
自分はいかに生きるのか?
自分の価値は何なのか?
そして、自分はいったい何者?何なのか?

と、こんな風にわが人生を5W1Hで問うてみると、
本当にわからないことだらけで、
きっと、この後、何年生きても、答えは明らかにならないだろう。
こんな風に問うてみることで、
「生きる」とは、
いかに見えない道を歩き続けることか・・ということに気づかされる。

しかし、日々のひとつひとつの事象、行動について5W1Hで問うてみると、
まあ、それぐらいはできそうだ。
これを何のため、いつまでに、どこで、誰のため、どのように?
仕事であればそれが、いくらで?ということも考えなければならない。

何かを行う場合、いつもこのスケールをもつことはとても大切だ。
その積み重ね、そしてその積算こそが、人生をふりかえったときに
人生の答えの一部になっていることだろう。
問うということは、真剣に向き合うということ。
その姿勢こそが、大切だと思い、問いかけのスケールを持ち続けよう。

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音の生還、未来に向け・・

20年ぶりのピアノの調律。まずは1台目。今回はグランドピアノからやっていただいた。約4時間。調律師の方が、掃除も兼ねて、丁寧に弦を、鍵盤をひとつひとつチェックしながら音を整えていかれる。
調律師という仕事は、尊敬する仕事のひとつでもある。もちろん自分にはできないことだ。ピアニストがどうがんばっても、いい音は出ない。楽器あっての演奏となる。しかし、ピアノの消費が低迷する今日、調律師という仕事も貴重な存在となってきているようだ。
じっと、ピアノの前に座って、耳を頼りに静かに音を調整。時々部屋から漏れ出るピアノの音色の変化が気になり、まだかな?まだかな?と何度もピアノに近づこうとするが、調律の妨げにならぬよう我慢、我慢。
「作業が終わりました」この声を聞こえ、待ってました!と、部屋に駆け込み、ピアノのそばに歩み寄る。
ピアノが光っていた。生き返ったようだ。笑っているようだ。
きれいになった鍵盤の上を指を走らせてみる。あ、このタッチだ。やわらかく、よく響く、明るい音。とても懐かしい。これがY社のピアノだ。
「とてもいいピアノです。これだったら、コンサートでも十分いけますよ。」
調律師の方に褒めていただけるとは、なんと光栄なこと。
なんどもキレイなピアノのフォルム、弦のデザイン、鍵盤の少し黄ばんできた色つやを楽しみながら、このピアノとのわが生い立ちが、走馬灯のように浮かんできた。

40年前。毎日この音色と一緒に過ごした。ベートーベンも、ショパンも、リストも・・・。ひたすら弾き続けた。親に怒られた日もピアノを弾けば免罪符のように怖いものなしであった。ピアノを弾いているときは、本当に自由で、自分の世界であった。そんな喜びを子ども時代から体験していたとは、なんという贅沢なことだっただろう。その時の喜びがくっきりと蘇る。
しかし、今はあの頃のように指は回らない・。暗譜したはずの曲もところどころ忘れていて、完全演奏ができない。でも、大人になってから覚えたタンゴやワルツなど、演奏ジャンルは広がった。クラシックだけがピアノの愉しみではない。
あれこれ記憶を辿りながら、しばらく、昔弾いていた曲を弾き続け、ああ、下手になったな~と悔しい思いも抱きながら、美しい鍵盤の響きに胸が高まる。

未来に響く、素敵な音色。無形の美が、明日への希望にもつながる。
久しぶりに何とも言えない、幸福な気持ちになり、苦労してこの経験と楽器を与えてくれた親に感謝の気持ちが湧いてくる。

新たな人生のステージづくり。しばし、コロナも忘れた。
素敵な2020年になりそう・・と思えてきた。ベートーベンも微笑んでくれそうだ。



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メディア社会でよりよく生きるために・・・のヒント。

図書館の役割は大変重要だ。単に多数の書籍、データベースを保有しているだけでなく、図書館それぞれの工夫で、独自の情報発信、知の啓蒙活動を行っている。目的の本を借りる、閲覧するだけでなく、新たな問題意識を持つにも、図書館の存在に目を向けることは有意義だ。

と、週末、京都の図書館に足を運び、そのことを改めて実感。
図書館が保有するさまざまな書籍に興味をもち、知的探索を行ってもらうための発信を館内でも、行っている。

中でもとりわけ、今回、私が気になったのは、
「インフォデミックを防ぐ」というテーマだ。
インフォデミック・・・コロナ初期の頃のマスク、トイレットペーパー騒動のように、不正確な情報の拡散によって世のなかに混乱がもたらされる事態を指す。
ソーシャルメディアを含む、このメディア社会の情報をどう受け止め、どう活かし、自らがどう主体的に生きるか。
この知的活動のために参考にすべき図書の紹介をしている。
そのテーマが興味深い。ここではその一部を記す。
・メディアリテラシー ~メディア社会を主体的に生きるために~
・フェイクニュース  ~情報社会え事実(ファクト)を探す~
・SNS・インターネット~特製を知る~
・デマ・うわさ ~古来からの「デマ・うわさ」で情報社会を捉える~
            ( 京都府立図書館 資料より)


いずれも、今、私自身、個人的にも大変興味をもっていることだ。
そして、情報を多く扱うプロである図書館こそが、正しい情報を得ることの大切さを説き、それらを活かす術を伝え続けることは大変意味がある。
ここで紹介されていた図書それぞれにも興味がある。
インフォデミックに関する書籍が、こんなにも世のなかにあることを知って
うれしくなる。共通した問題意識をもつ人がいることは心強い。

この夏に、ぜひインフォデミックについて学び、正しい情報の受発信について
自分なりに再整理してみたい。

図書館に時々立ち寄ってみる。やはり知の宝庫、アカデミックな世界の入り口は
清々しい。

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