音を出す難しさと歓び

人間は生まれながらにして、自分の身体という楽器を持っている。口を開けば歌が歌え、口笛もでき、二人以上いたら合唱も楽しめ、手足を叩けばビートを刻むこともでき、、、。歌いたい曲は自らが創ることもできる。一人で歩きながら、表現を楽しむことが出来る。

楽器を使うようになったのは、もともとは祭祀の時だと想像する。神さまに感謝や祈りを捧げる時にいろんな工夫がされた。のち、音楽は貴族たちの優雅な趣味として楽器をつかって表現されるようになり、一方、庶民の喜怒哀楽を表現する手法としてさまざまな大衆音楽が広まった。人間の歴史とともに、音楽のスタイルは民族や宗教、暮らしとともに多様に広がった。

ピアノに親しんできた。途中20年以上のブランクがあったが、、まだ復帰途上、微かな期待は消えないでいる。最近、ピアノしか弾いていないと見えないことがあることに気づいた。ピアノは鍵盤を叩けば、当たり前のように音が出る。もちろん電気楽器ではないので、鍵盤との向かい方で出る音は異なるし、ひとえに調律師という大切な存在がピアノという楽器と演奏者を存在させてくれている。

一方、触るだけでは音が出ない楽器も多い。自らが音を出す楽器。管弦楽器もそうだ。自分の手と、呼吸と勘で音を出していかねばならないのだ。

最近、こちらの領域にも興味が高まっている。自分の手で呼吸で音を出す苦労と出たときの喜び。自分だけの音。出た時の喜び。ピアノがスラスラ弾けるのも嬉しいが、出ない音が出せる時の感激はひとしおだ。

思えばピアノは、場所も運搬も調律も含め、やっぱり貴族生まれの贅沢品だ。より多くの人に支えられ、演奏という環境は与えられる。もちろん見た目の存在感からしても、楽器の女王であることは間違いない。そのことを理解し、その音色と技術の向上、研鑽とともに、自分自らが出す音にも挑戦しようと模索している。

響かせたい音を自ら出して、それで聴く人に感動を伝えることができたら、、。最近の小さな目標のひとつ。

自らの心身をフルに生かした表現の追求は、人間の可能性をさらに広げてくれる。

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